私が看護師を目指すようになったのは、中学3年の冬でした。
担任に進路を聞かれたとき、「働きます」と答えました。担任は因った顔で「もう少し良く考えろよ。親御さんにも相談しないとな」と言い、数日後、母親が学校に呼ばれました。母親は私に「光は小さいころよく入院していて、そのころから看護婦さんになりたいって言ってたけど、今はどうなの?。一から始められる事なら頑張ってできそうじゃない?」と言われました。
その言葉をきっかけに進学を決め、白田高等学校衛生看護科へ進みました。その後、佐久総合病院看護専門学校へ進学して、佐久総合病院に就職しました。
初めての配属場所は、脳外科、形成外科、歯科口腔外科の混合病棟で、四苦八苦しながらも、4年間看護師としての経験を積み、現在のICUへ異動しました。ICUへの異動は希望ではなかったため、不安でもあり、最低でも3年はいないといけないと言われたときは、絶対無理だと思っていました。
約3年前にドクターヘリの運航が開始され、それと同時にフライトナースの依頼が舞込んできました。その話しをもらったときは、フライトナースってなに?、というレベルだったので、私では勤まらないと思っていました。しかし、以前、母親が言ってくれた「一から始めることなら頑張れる」という言葉を思い出し、何かのきっかけになればと思いフライトナースを受けました。
今まで看護師として病院内の患者様と接する経験しかなかった私は、フライトナースとしての仕事の中で交通外傷などの現場で、とても生々しく、今でも忘れられないことがあります。ちょうど1年前の6月、渡部医師とフライト勤務でのことでした。ここ5日間ほどへリ要請が途絶えていたため、今日は来るかな?、と思いながらICUの仕事をしていたところ、10時00分にヘリ要請が入りました。場所は上田、トラック3台と乗用車2台の交通事故、詳細不明。
この情報を聞いた時点で頭はパニック状態。これが本当であれば、いったい傷病者は何人?どんな状態?自分には何ができる?、などいろいろ考えながら物品を用意し現場へ向がいました。現場は、乗用車、トラック、救急車、消防車などが入り交じり混乱状態でした。隊員に「こちらです」と案内された場所は田んぼの中でした。一瞬、えっ!と思いましたが目の前には、車が車とは思えないほどにつぶされ、圧縮された中に人が挟まれており、まったく動く気配はありませんでした。私の足は一瞬止まってしまいましたが、すぐ医師の後を追い、医療物品を持ち傷病者の許へ向かいました。しかしすでに呼吸はなく、脈も触れず、その場で死亡確認となってしまいました。
このときの凄まじい状況は初めての経験でとてもショックで、一生忘れるこはできないと思います。しかし、すでに今年で9年目となってしまった今、いろんな場面でプレッシャーを感じています。
フライトナースの仕事は想像以上に体力を使う過酷な仕事であると同時に、フライトナースでなければ知ることのなかったことが学べる場でもあると感じています。現場では限られた人員、限られた機材を使いみんなが協力し合い、一人ひとりの命を救っています。フライトナースの仕事を始めることで、命を助けるという仕事を改めて考えさせられる良い機会をいただいたと思っています。
これからも自分にできることをこつこつと行い、何かの役にたてればいいがなぁと思っています。 |