佐久総合病院ニュースアーカイブス   　ばあちゃんを迎える作業は午後まで続いた。ここ数年光の入らない奥座敷には、袋に入ったまま積み上げられた真新しい寝具類が、見事にネズミ軍団に食い破られ、排泄物の異臭で、もう全く用を足せる状態ではなかった。こんなことなら、もっと早いうちに、新しい布団に寝て、快適な生活を送った方が良かったのにと舌打ちしても、明治生まれのばあちゃんは、決してそんなことは望みやしない。１人の力では到底持ち上げられない畳の下には、小銭やお札や通帳があった。 　この家を絶やさないために、他人を拒否し、いろいろなものを犠牲にして、女２人で守ってきた家という鳥居が、ごく近い将来には絶えてしまう可能性があることを、ばあちゃんはあたかも否定するように、取っておいた財産のような気がした。先々、将来のことを踏み込んでばあちゃんには誰も聞けない。全て、なるようにしかならない老い方を支援していくのである。 　ばあちゃんと妹の生活を支えるサービスは、退院したその日から組まれている。頻回に入るサービスが順調にいくために、福祉係はネズミの餌となる全ての食料を片づけ、穴という穴を塞ぎ、ネズミ取りをしかけ、４方でバルサンを焚いた。次の日から大量に肥ったネズミが捕獲された。しばらくしてばあちゃんの家は、ようやく人の住める家に生き返った。もちろん、福祉係は、ばあちゃんの退院に引率した。しかし、ばあちゃんは相変わらず「行政の世話になるほど困っちゃいない」という。　生き返った家の様子に、ばあちゃんは機嫌が悪い。大事なものを端から誰かに取られたと不満を並べた。ばあちゃんの不満には、こちらも相当強い抗体ができているのである。キノコ布団事件から５年、「エアーマットは嫌だからすぐに移してくれ」「目が充血したのはよそ者が家にばい菌を持ってきたからだ」「陰部洗浄時に指を入れられ不快だ」「半年の間に勝手に特別障害者手当を切った」とか、「話はないから帰ってくれ」とか何事にも腹を立てるのが日常的だった。ステロイド剤で膨らんだ赤ら顔に、常に下に向けた視線に、ときどきにらまれると背中がぞっとしたものだった。 　しかし、今度ばかりは自分で起きることもできない。妹に命令や指示を出しても、認知症の進んだ妹が、思いどおりに動けないのはわかっていても、ばあちゃんの口調はきつくなる。もうサービスなくして２人の在宅生活は続けられない。 　朝夕に配食が提供され、昼はヘルパーが連日入り、妹と共同で家事援助を行い、終了時には２人に内緒で必ずガスの元栓を閉めて帰った。いつ火災が起きてもおかしくない状態だった。そのため、妹は、ガスが出ないと近所に何回も訴え歩き、ガス屋に頻回に電話をした。そのうちに電話番号も忘れ、近所に出歩く回数が増え、入院中身綺麗だった顔は、あっという間に炭のように真っ黒になり、衣服も汚れ、お尻も半分出して歩くようになった。褥そうの処置に毎日看護師が入る、ばあちゃんの体だけが対照的に綺麗だった。妹を風呂に入れたいが、デイサービスの利用についてばあちゃんは首を縦に振ってくれない。妹が嫌だという。そのうちに２人で老健のデイケアに行こうという提案に、行けるようになったのはばあちゃんだけだった。 　ある日、ヘルパーが健康診断に連れて行くからと妹をだまして、デイサービスの風呂に２回入れることができたときには、思わずみんなで歓声を上げたが、さすが妹も、同じ手口には何度も引っかからなかった。 　２人が退院して半年、秋も深まり朝晩は冷え込んだ。食事には、むさぼるように食らいついたばあちゃんの食欲が落ち、不整脈も悪化した。ばあちゃんは入院を拒み家にいたいといった。その日は特別冷え込んだ。看護師のいつもと同じ早めの訪問を、妹が待っていた。「今日ほど看護婦さんが来るのを待っていた日はありません」と小走りに奥へ入って「姉さん」「姉さん」と声をかけた。ばあちゃんは、今まで見せたことのない様な穏やかな顔をして冷たくなっていた。妹は乱れることなく、静かに脇に座っていた。