佐久総合病院ニュースアーカイブス  







 ばあちゃんの物忘れが始まって10年以上になる。まじめで几帳面で働き者。加えてお人好しで、人一倍人に気を遣う優しい人だ。ばあちゃんのことを「あんなにいい人は何処にもいないよ」と誰もが口を揃えていう。
 ばあちゃんは、同じ頃に嫁いできたおばちゃんの顔を見ると、顔を紅潮させ小刻みに首を縦に振りながら涙ぐんでいる。自分の言葉でうまく表現できないばあちゃんに、おばちゃんは優しい声でいう、「おらとは、まるで牛のように働かされて苦労してきたから、これからう〜んと幸せになろうね」。
 ばあちゃんの几帳面さはあらわゆる所に現れる。ばあちゃんの目が玄関の靴に留まると、靴を何度も揃えたり、入れ替えたり靴の中の下敷きを入れたり出したりと作業は続き、炬燵の掛け布団や靴下に毛玉を見つけると、丁寧にいつまでも取り続ける。終いには縫い目を上から下へと爪でこき下ろしていく。
 野菜の千切りはお手のもの。細かく切れた大根やニンジンの線が美しい。ばあちゃんは台布巾が好きで、たたんでは開きを繰り返している。こんな作業のときは至ってばあちゃんのポケットや下腹部が大きく膨らんでいる。
ばあちゃんは大勢の中が苦手だ。中でも強い口調言葉に気後れする。でも、楽しい笑い声や歌、遊びのゲームや子どもの声には、どんなに遠くにいてもすぐ反応して、自分から進んで加わってくる。とにかくばあちゃんの目と耳は鋭い。遠くに見える小さな車に「誰かいるよ。怖いよ」と驚き、近くに来ると身体を強ばらせる。昼食時に洗濯機の「ガタッ」という小さな物音にいち早く反応し必ず箸を止める。「ごめんね。大丈夫だよ」とサンドイッチで囲まれた職員の聞き慣れた言葉で安心する。
 窓越しに人の背丈ほど長くなったイタドリの木が遠くで風に揺れている。無人の変電所に何台もの車が行き来する。ばあちゃんにとっては、すべて「何だかわからない」人たちに見えるのである。でもこんなときは、むしろばあちゃんの調子は冴えている。
遠慮がちのばあちゃんは、整然と置かれた食事に手を出すまでに時間がかかる。反面好きな物が出てくると待っていられない。カボチャや花豆やささぎ豆の煮豆は大好物。リンゴの甘煮や「煮こじ」、煮魚や混ぜご飯も大好きである。最近ではキュウリの粕もみは毎日でも飽きない。「トントン」「シュッシュッ」「グツグツ」とお勝手で音がする。
 ばあちゃんは、いつもの席に座っている。日本手ぬぐいでほっかぶりし、昔婦人会でかけた白い割烹着がよく似合う。ばあちゃんの後ろには、いつもの古びたラジカセから懐メロが流れている。ばあちゃんは両手で「みよちゃん」と名付けた人形の脇を優しく抱え、ニコニコしながら左右に振ってあやしている。机の上には、郵便局の定期預金でもらった3枚のお揃いの小皿が置いてある。さっき煮えたばかりのカボチャと「煮こじ」から美味しい湯気が出ている。手作りのリンゴ菓子は、昨日近所の方が届けてくれた。
歌を口ずさむ声が止むと同時に、舌が鳴る音がする。ばあちゃんの「お手しょ」に盛られたカボチャと「煮こじ」がばあちゃんの口の周りを汚している。「いいだよ。お利口だんな」とみよちゃんに声をかけている。みよちゃんと古びたラジカセは、いつもばあちゃんとセットで家の中を動いている。