Aさんが脳梗塞で倒れたのは11年前。そして61歳で2度目の脳梗塞に襲われた。10年目での再梗塞である。初発による障害は、軽度の言語障害と右半身の不随麻痺。リハビリを経て、身の回りの生活はほぼ自立できるまでに回復し、毎日決まったルートへ散歩や、畑仕事、地区行事をこなし、生活の担い手として、役割や自信を取り戻していた矢先でもあった。
春を迎え、その日もお父さんと野菜の作付けに鍬柄で畑を柵っていたという。盛り上がった2つの尾根が、Aさんの所だけ何故か右側へ逸れていく。おかしいと思ったお父さんは、その足でAさんを連れて病院に駆けつけた。
再梗塞によるAさんの障害は、前回と反対の左半身不随麻痺。軽度であったが、体幹の機能障害と、高次脳機能障害を合併した。部分部分の身体機能は維持されていたが、行動に繋げる判断力や集中力に障害を抱え、感情失禁も見られた。日常的に必要時のみの介護の手だけでなく、見守りや繰り返しの声かけといった、目の離せない介護が新たに生まれた。
障害は、今まで当たり前に流れてきた生活に、大きな変化をもたらしていく。本人はもちろん家族には、かなり覚悟したスイッチの切り替えが求められる。障害を抱えた年齢が若いほど、身体的にも、経済的にも、社会的にも、背負う落差が大きくなる。病気がさせている障害とわかっていても、「もっと歩けるはず、できるはず」と、周囲の受け止めにも落差を生む。そして、現実の介護に向き合いながら、また、多くのスイッチの切り替えを迫られながら、時間の経過という力を借りながら、受け止められていく。
Aさんは、毎日お父さんの軽トラックでやって来る。体を突っ張りながら、お父さんの太い強健な首に、両手を強く絡ませて負ぶさってくる。「ハイ宅急便。はんこうお願い」とお父さんの大きな声。「ハイよ」と、ポンと手をスイングし合って「いってらっしゃ〜い」と元気よく送り出す。これがお父さん流なのである。
お父さんの軽トラの荷台は、まめトラやボテ・鍬柄に肥料と、1日の農作業の資材でいっぱいである。作業着に手ぬぐい姿のお父さんは、いつもこのまま田畑山に直行である。時々頭を撫でつけて、素敵な格好をしている時は、会議に旅行にゴルフにと、お父さんの行動は全て開けっぴろげである。じっとしていないお父さんの行動力と体力、責任感に感服しつつ、「たまにはこちらで送るよ」というと、「軽トラに乗っている道中が、自分にとって唯一の気持ちの切り替え場所だからな」と。お父さんの潔さと男気には、多くの言葉はいらないかも知れない。「ごくろうさま」「行ってらっしゃい」「無理しないでね」と職員の元気な声が響く。
数年前に退職したお父さんは、家のことは妻と90半ばの母にいっさい任せてきた。今は日中、高齢の母が留守番し、お父さんが家事もこなしている。日常の動作の全てに、見守りや声かけの必要なAさんに求められる介護は、「待つ介護」。一方で、生活をこなすには「待っていられない介護」が発生する。「待っていればお父さんが手を出してくれる、やってくれる」とAさんの依存心が高まる。Aさんは、1年増しに病気から来る体幹の強張りに加え、動作への不安や恐怖から来る緊張性の硬直、そして認知力の低下も進んでいる。甘えと依存の中で、依存しながらも自律できる場面を、一つひとつお父さんと両輪で作っていく場が求められる。「この所調子良いぞ」お父さんが言った。毎晩子どもたちや、姉妹たちと数10分の電話での会話が始まっている。
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