ばあちゃんはここのところ穏やかでない。命に関わる病気を抱えているはずなのに、病状が悪化しているような所見は見られない。むしろ聴力も視力も尖鋭化し、ばあちゃんに関係ない会話も、すべて自分との会話にすり替えて、みんなからもぎ取っていく。もぎ取られた言葉はいつの間にか、ばあちゃん流の悪口言葉や否定言葉に変換される。
だからもぎ取られた声の根っこまで引き抜かれないように、傷つかないようにと、唾と一緒に飲み込んで、目の玉を揺らしているおばあさん。「わかりません。知りません。忘れてしまいました」と自己防衛用の武器をじょうずに身につけて、ばあちゃんの勢いをスッと交わすおばあさん。
そして難聴という最大の武器で、ばあちゃんの機関銃言葉を雑音に変換し、気にかけない、相手にしない長老のおばあさん。声にお尻を向けて横になってしまうおばあさん。
このように不快音から遠ざかる知恵を肯定的な態度で返してくれる仲間の中では、攻撃的なばあちゃんの勢いも、瞬間瞬間で収まりがついていく。しかし、会話に積極的に加わって、お互い全く交わらない会話をしながらも、悪口や中傷には何故か意気投合し、輪をかけて話を大きくしてくれるばあさんが複数いる日は、大荒れになるのである。何れも長年積み重ねてきた心の癖に認知症という病気が拍車を掛けている。
特に男衆の大きくて太い声は、ばあちゃんの蛸牛を大振動させ、不快指数を上げるらしい。「威儀ってて、怒ってて何様だい。嫌な人だよ。私は工場で散々いじめられただよ」と、絶妙な作り話が始まると、周りの同意を自分本位に次から次へとさらって、雪だるま式に言葉だけを肥らせていく。「大きいおっかない顔だこと。いじめられるよ。気をつけな。あんな人はここへ来なきやいいだよ」ばあちゃんの排除菌に別の声も荷担すると、隣のじいちゃんが切れた「あんた、少し黙ってろ。うるさいよ」「あたしゃひとつもしゃべっていないよ」ばあちゃんは「人のせいにする病気」にも犯されている。
認知症者は自分の気持ちに正直である。ばあちゃんは不快感情が優先する。病気が快不快をはっきりさせているにしても、ばあちゃんの快の感情領域は厳しく狭い。ばあちゃんは、日常生活において全て介助である。しかしやってもらっている、助けてもらっていることが感謝に繋がっていかない。「私と同じ名前のズロースだよ。こんなところで裸になる人は嫌いだい。自分でやらないで、人に洗濯させてさ。私しゃ全部自分でやってるよ」ここのところ、ばあちゃんの尖鋭化した視力と聴力に働きかけないよう、他者との関係に輪をかけないよう距離をとって、ばあちゃん用の作業を間を置かずお願いする。「ありがとうね」「助かったよ」「ばあちゃんにしか頼めない難しい仕事だからね」ばあちゃんの不快感情が段々と澄んでくる。老いることは甘くない。自分の心の癖が着々と積み重なっていく。
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