〜「農民とともに」No.86〜
八千穂村健康管理 |
ノミ、シラミとりの毎日 衛生指導員の生い立ちを語る前に当時の村の衛生状況を少し説明しておかねばならない。 話は40数年前に遡る。 昭和20年代もそろそろ終わりに近づこうとしていたが、農村の生活環境は依然として悪かった。食料も十分とは言えなかったし、衛生面ではさらにひどかった。 ノミやシラミは家の中のどこにでもいた。当時開業していた故出浦公正医師によれば、往診に行くと、患者の側に座って布団をまくって診察するものだから、座っているうちに靴下の方からシラミが移ってきて、家に帰ってからムズムズ痒くて困ったという。 夜になれば、布団の中にノミやシラミが何処からともなく集まってきて痒くて眠れない。誰かが痒いといえば一斉に起きてシラミとりをやる。布団や毛布にたかっているシラミとその卵をみつけて、手でつぶしていく。また週に一度は、着た物を全部ぬいでたらいに入れ、そこへ熱湯を注ぐ。するとシャツの衿などにシラミが1列になり白くなって死んでいるのが見つかったという。 とくに女の子の髪はいつもシラミでいっぱいだった。DDTができてからは、子どもの頭が真っ白になるほど、プカプカDDTをかけて、風呂敷で頭を縛って一晩経てばシラミはみな死んでしまったという。 ハエを手で払い払い食事 ハエも家の内外を問わずブンブン飛んでいた。その発生源のひとつは便所だった。便所はみな外便所で家の外にあったが、これは屎尿をすぐ肥料として使う必要性からだった。従って尿溜は露出していて、ハエが発生し増えていく温床となっていた。 それに大抵の農家は、主に農耕用に牛や馬を飼っていたが、畜舎は家と接して作られていた。というよりはむしろ家の中にあったといってよい。台所と土間続きだったからだ。牛馬の糞便にハエがたかる。それがもろに台所へ押し寄せる。だから家の中にハエが絶えることはなかった。 いざ茶碗にご飯を盛ると、待ち構えたようにハエがいっせいにたかってくる。それを手で払い払い食事をする。そのことを誰も不思議とは思わなかった。 ナベ洗いも洗濯も川で ![]() 穂積の穴原地区は地下水も川もないところである。ここでは生活用水として、地区のほぼ中心にある「石舟」というのを利用した。石舟というのは、湧き水を樋(とい)で引き、貯水のために石でつくった水槽である。ナベ、カマ、洗濯物などを籠に入れ、背負ってきて石舟で洗う。飲み水にも使ったから汚染がやはり心配だった。 据風呂は肥料づくりに 風呂桶も便所と同じく、みな戸外にあった。尿溜の上に立てた据え風呂である。これも風呂の残り湯を尿と一緒にして肥料として使うためだった。 当時は風呂は1週間に1度ぐらい立てるのがふつうだった。その代わり近所で交代で立てて、1つの風呂を共同で利用した。 嫁さんが風呂を立てると、姑さんが「今晩風呂を立てたから、来ておくんなんしょ」と近所に言って歩く。すると夕食後、近所の人たちが・「おつかれでやす。ふろを貸しておくんなんし」と次から次へと訪れる。いろりで順番を待つ間に、お茶を飲みながら世間話をする。嫁さんは火を燃やしたりお茶を入れたりして、一番最後に風呂に入る。その頃は風呂の湯も少なくなり、大分汚れている。 ![]() 体を洗うのはすべて風呂の中で、外で洗ったり石鹸を使うのは許されなかった。肥料効果が落ちるからである。それ以前、石鹸のない頃は、洗濯するにも頭を洗うにも、藁を燃やし灰をザルに入れてお湯をかけて灰汁を取り、その水で洗ったという。こちらの方がむしろ肥料効果があったとか。 外便所が脳卒中の引き金 外便所や戸外の据風呂の衛生上の問題点はもうひとつあった。冬の寒さの害である。 いろりと炬燵だけの暖房では、部屋の中自体もそう暖まるわけはなかったが、冬の夜の戸外はさらに寒く、大体が零下10度近くになる。外便所では夜中に温まった体を急に寒い外に曝すことになるので、急激な血圧上昇を起こし脳卒中の引き金になった。 昔は今のような布団はなく、みな藁布団だった。秋取り入れの後に10センチくらいにきざんだ藁を詰め込んで厚さ30センチの藁布団をつくる。その上にせんべい布団を重ねて寝る。これは案外温かかったようだが、埃が多く出るのが欠点だった。 ともかく、いろいろな面で当時の農村環境は現在では想像もできないくらい悪かった。衛生面からいえば、いつ伝染病が発生してもおかしくない状況だったが、やがて穂積地区で、県下随一といわれる赤痢の集団大発生が起こることになる。これが村を揺るがす大事件となった。 (かんとりい・とりお) この連載は、健管OBの松島松翠、横山孝子、飯嶋郁夫さん三人の共同執筆によるものです。“かんとりい・とりお”(country trio)とは「田舎の三人組」との意味。 |
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