〜「農民とともに」No.93〜



八千穂村健康管理
地元の出浦医師に会う
 村長と若月院長(当時)の合意によって、いよいよ八千穂村で村ぐるみの健康管理がはじまることになった。しかし、そう簡単にはことが運ばなかった。
 まず地元の出浦公正医師の承諾が必要だった。当時、佐久病院で健康管理の仕事を担当していた寺島重信医師(当時は外科)と井出秀郷さん(後に健康管理課長)が出浦医師のところへ出掛けていって、「今度、八千穂村で、毎年1回の健康検診をやりたいと思うので認めてほしい」と頼んだ。
 出浦医師は八千穂村ただ一人の開業医で、もう30年以上も村医として村中を飛び回っていた。村民の信頼は厚かったが、とても頑固で恐い先生だという評判だった。そんなことは知らない寺島医師は、胸を張ってその意義について滔々と説明した。「どの範囲をやるのか」と出浦医師が聞いたので、得意になって「全村です!」と答えた。日本のどこでもやっていないこんなすごいことを、八千穂村でやるんだという意気込みがあった。


本当に診断できるのか

村医の出浦公正医師(自宅にて)
 出浦医師はすぐ賛成してくれるものと、寺島医師は軽く考えていたのだが、彼はなかなか返事をしない。ややあって、「あんたたちは、そんなでかいことを言っているが、本当にできるのか。八千穂村の村民のことは俺がいちばん良く知っている。親父の名を言えば孫の名まで全部分かる。どんな仕事をしていて、どんな生活をしているかすぐ分かる。そんなことも知らずに、ただ1回だけちょっと来て診察するだけで、その人を診断できるのか」と言うのだった。
 病気のいちばんのもとの生活背景も知らずに診断などするのは、おこがましいと言うのである。村民の一人ひとりを長い間診てきた開業医としての自負がそこにあった。なるほど彼の言うことも一理ある。2人は、そのまますごすごと帰ってくるしかなかった。

医師会も反対したが
 しかしこれで引き下がっていては村の健康管理ができない。寺島医師と井出さんは十分な資料を備えて、もう一度出浦医師を訪れた。若月先生が作った「健康手帳」と「健康台帳」の見本を見せて、こういう手帳を村民に配って、単に検診の記録だけでなく、自分の健康の記録を自分自身でも記入するようにするのだと説明した。
 しばらく眺めていた出浦医師は「よし分かった。健康管理の件は承知した。俺も時々は検診に行くよ」と言ってくれた。やっとOKが出て、寺島医師と井出さんはほっとして帰ってきた。
 だが、もう一つの難関があった。南佐久医師会が反対だというのである。出浦医師が医師会へ出て、寺島医師からもらった健康検診の資料を見せて説明したところ、「こういう内容であれば賛成できない」と強く反対された。
 その理由は、検診をやって患者を病院へ引っ張ってしまうのではないか、開業医の患者が減ってしまうのではないかという危惧かららしい。病院としてはそんなつもりはないが、開業医としては心配だったのであろう。
 しかし出浦医師はひるまなかった。出浦医師は頑固な面もあるが、道理が分かればとことんまでやる人である。「村医である私がいいと言っているのだから、ぜひ認めてほしい」と頑張った。その結果、ついに医師会も折れ、最後には承諾してくれたのであった。

新たに衛生指導員として
 役場でも、保健衛生係の間島さんを中心に、健康管理への準備がすすめられた。
 特筆すべきは、今まで主としてハエやカ退治の仕事に従事してきた環境衛生指導員を、あらたに「衛生指導員」として、健康管理の担当としたことである。環境衛生の仕事も引き続き受け持つのではあるが、主たる仕事は村民の健康管理のほうへ移ったのである。
 初代の衛生指導員は全部で8人いた。その中には、もう40年も経つのだが、今もOB会として活躍している山浦虎吉(トラさん)、井出佐千雄、出浦経幸、井出守、渡辺一明さんなどがいた。
 衛生指導員の初仕事は、まず年に1回の健康検診のPRをすることであった。地区の衛生部長さんや病院の井出秀郷さんといっしょに、各地区を回って個別訪問をした。昼間は誰もいないので、回るのは主に夜であった。


健康手帳を皆が持って

蚕室を背に、一家そろって有線放送を聞きながら
健康手帳の記入の仕方を勉強した。
 八千穂村全村健康管理の特徴は、健康手帳と健康台帳をそなえて、年に1回の全村民の健康検診をやるということである。
 健康手帳や健康台帳は若月先生が考えたものだが、その発想の原点は、家畜には健康台帳(いわゆる「家畜台帳」)があるのに、いちばん大事な人間様のほうにはそういう記録はない、不合理ではないかということだった。
 家畜もいろいろ病気にかかるし、予防注射もやるので、検査した結果をきちんと記録しておかねばならない。また売買したりするので家畜台帳が早くからつくられていた。貴重な労働力であるし、もし病気で倒れれば大損害だった。人間様より家畜のほうが大切にされていたのである。
 この健康手帳の考えは、昭和58年に老人保健法が制定されるときに受け継がれ、国民の40歳以上の者全員に配付されることになった。これはすべて八千穂村が出発点になっている。
 健康手帳には自分で書き込む欄が多く設けられてある。自分で自分の健康を管理しようという考えからだ。若月先生は、役場の放送室に出向き、その記入の仕方を有線放送で直接村民に説明した。それを聞きながら、村民は予め配られた健康手帳をみながら記入をすすめた。自らの健康管理の第一歩であった。
(かんとりい・とりお)

 この連載は、健管OBの松島松翠、横山孝子、飯嶋郁夫さん三人の共同執筆によるものです。“かんとりい・とりお”(country trio)とは「田舎の三人組」との意味。