〜「農民とともに」No.118〜
八千穂村健康管理 |
日本一の長寿の村を 衛生指導員の「健康まつり」での演劇上演はとても評判になった。あちこちの地区からも上演を依頼されるようになった。それは八千穂村だけに限らなかった。毎年5月の小満祭に合わせて行われる佐久病院の「病院まつり」にも、いくつか上演するまでにもなつた。これからの衛生指導員活動にとって、演劇上演が大きな弾みになったように思われた。 ところが、実際はそううまくは運ばなかった。1つは、昭和61年に役場の衛生係が代わって、健康管理の進め方がガラリと変わつてしまったのである。 年度が新しくなって、佐々木(澄雄)村長は、「どうしたら日本一の長寿と健康の村になれるか、よく考えてくれ」と担当課に命じた。村長は以前から、「日本一の長寿と健康な村をめざそう」というスローガンをかかげ、それを記した柱を国道141号線の道路脇に建立していた。
日程作成が反発を招く 昭和61年11月、村の総合検診の時期がやってきた。衛生係は、昨年の日程を参考にしながら、全地区の検診日程を作成して、衛生指導員会にかけた。ところが予め検診日程が決められていたことに、指導員たちは反発した。 今までの検診日程の決め方は、衛生指導員会で、それぞれの地区の希望を出しながら、皆で相談して決めていた。「俺の担当地区は雪が降るのが早いので、年内にやってくれ」とか、「暮れは商店街が忙しいから、正月が過ぎてからにしてくれ」とか、希望を出し合って決めた。受診率を上げるためには、できるだけ皆の都合の良いときに検診をしたいというのが、衛生指導員の願いだった。 日程がかち合ったときは話し合つて決めたが、時にはかち合った両者が譲らず、喧嘩になつたこともあった。それだけ、日程編成には皆真剣に取り組んだ。 他地区への手伝いは学習 また衛生指導員は、自分の担当地区だけでなく、他の地区へも交代で参加して、お互いどうし援助しあった。 それはまた、指導員の学習の機会でもあった。「この地区はこんなやり方をやっているね」とか、「ああいうやり方はいいね。うちでも取り入れよう」とか、「こうやったら受診率が上がるのか」とか、その地区の取り組みを見てお互いの参考にしたのである。極端に言えば、他の地区のやり方を盗みに行ったといってもよい。 誰がどこの地区へ手伝いにいくかも、希望に応じて皆で相談して決めた。飯島郁夫さんは、佐久病院の健康管理部に入って、初めて衛生指導員会に参加したとき、その日程の決め方を見て「これはすげえな」とびっくりした。こんな住民主体のやり方は、どこの町村でもやっていないことであった。それが相談なしに、役場で一方的に日程が決められ、さらにお手伝いは、婦人推進員がいるため、不用になったと説明された。 勝手に決めないでほしい これには衛生指導員たちも頭にきた。「担当区になんと言ったらよいか」「担当区にこんなこと言えねえや」「勝手に決めないでほしい」など意見が相次いだ。衛生指導員には、地区から推薦され、地区の声を代表する保健活動家としての責任がある。 各地区の検診が全部終わって、衛生指導員、衛生部長、婦人推進員の合同会議があったときに、高見沢さんは会長として、こう言った。「このやり方は合理的かもしれないが、どんな良い方法を考えても、一方的にやられては皆が納得しないし、一所懸命にやろうとしている者ほど、がっくりしてやらなくなるから、もうちょっと相談をかけてやってくれ」と。 婦人推進員の強化へ もう一つ、衛生指導員に問題を投げかけたのは、「婦人の健康づくり推進員」の組織化のことがあつた。
殆どの町村では、すでに婦人推進員(名前は各町村で異なり、保健補導員とか、健康推進員とかいろいろある)という組織がきちんとできており、行政の手となり足となり活躍していた。県や佐久地区単位での組織もできており、年1回の集まりもある。 かつてその佐久地区の集まりのときに、指導員も行ってくれと村から頼まれ、小宮山則男さんや高見沢佳秀さんら3人が出席して発表したことがある。そのとき、当然ながら男性は八千穂村だけだったが、集まった各町村の出席者たちは、八千穂村の男性の衛生指導員という組織を羨ましがった。 しかし村からすれば、衛生の仕事を進めていくのに、なんとしても他の町村の婦人推進員というのは魅力的に見えた。より深く地域に根ざした健康管理活動を進めるためには、女性のカを抜きにしては考えられないと担当は考えた。 婦人推進員の強化という考えは健康管理推進にはよいと思われたのだが、これが衛生指導員との間に問題を起こすことになった。 (かんとりい・とりお) この連載は、健管OBの松島松翠、横山孝子、飯嶋郁夫さん三人の共同執筆によるものです。“かんとりい・とりお”(country trio)とは「田舎の三人組」との意味。 |
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