夏季大学

故・若月俊一 名誉総長
故・若月俊一 名誉総長

2010 第50回農村医学夏季大学の内容

≫50回夏季大学は既に終了しております≪

日 程 1日目  2010年7月30日(金曜日) 12時45分~
2日目  2010年7月31日(土曜日) 8時30分~15時30分
テーマ 住民が主役になる保健・医療・福祉とは ~若月俊一生誕100年に問う~
場 所 〒384-0303 長野県佐久市下小田切124−1  (TEL.0267-82-3963)
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事務局 〒384-0301
長野県佐久市臼田197番地
佐久総合病院・夏季大学講座係
TEL:0267-82-2677(直通)
FAX:0267-82-7034

 

農村医学夏季大学講座の歩み

 夏の信州山間部の涼しさと静かな環境を利用して、市民大学的なものを開催してみようという、いわゆる「夏季大学」的発想は、教育県長野としては、大正時代から既にあった。  私どもの「農村医学夏季大学」構想も、もちろんそのような信州的雰囲気から生まれたことは確かといえよう。

 しかし、それは昭和36年である。まさに戦後も、高度経済成長の始まらんとする時代である。  私どもは、広く国内の保健衛生の活動家である人たちが、第一線の活動の中で、非常な苦難や困惑に遭遇している現実にまず着目した。そして、地域住民の健康を守る仕事を、基本的人権と民主的精神の運動に結びつけて、その「第一線的」意義を強調する再教育・・・それこそがわが夏季大学の主なモチーフだったといえよう。

 この講座の始まった頃は、確かに古い農村生活から生じた衣食住の問題が主で、特に寄生虫や「農夫症」、また、この対策としての農村生活改善運動や農民体操などが、いろいろな立場から論じられた。

 しかし、第3回目あたりからは、「農薬中毒」問題が現れ、続いて変貌する農村社会と農業労働の中で、「主婦農業」「農村と社会保障」「食品添加物と洗剤の危機」等々、何れも、農村や農業における高度経済成長路線の健康破壊的ひずみが問題として取り上げられている。

 昭和55年(第20回)以降になると、この講座の内容は、もっぱら老人の医療保健問題に傾いてくる。農村人口の急速な老齢化現象がその基礎にある。それも単に医療機関の立場からでなく、福祉の問題まで含めて、更にこれを地域全体の立場から「地域づくり」の一環として取り上げるようになったのである。

 そして今日におよんで、「寝たきり老人」「呆け老人」のケアのための「中間施設」問題を取り上げるとともに、村の中での「ボランティア」活動を、農協組織などを通して、積極的に推進することを提唱するに至っている。

若月賞について

 1992年(平成4年)元・厚生省医務局長 大谷藤郎氏の提案により、若月名誉総長の長年にわたる業績を記念し、全国の保健医療分野で「草の根」的に活動されている方を顕彰するために制定されました。毎年、夏季大学の席上で表彰式が行われています。

 《選考委員》  (敬称略・五十音順)

  • 井 出 孫 六  (作家)
  • 大 谷 藤 郎  (藤楓協会理事長・国際医療福祉大学学長)
  • 川 上  武 (医事評論家)
  • 行 天 良 雄  (医学博士・医事評論家)
  • 樋 口 恵 子  (東京家政大学教授)

これまでの受賞者

(敬称略・五十音順

1992年
第1回
受賞者
浦野 シマ (わかまつ共同作業所所長)
わが国の精神科看護の基礎を築き、精神障害者に対する福祉活動の発展と回復者の社会復帰事業に尽力
徳永 進 (鳥取赤十字病院内科部長)
地域医療における末期医療問題、更にハンセン氏病患者の隔離差別問題に取り組み、著書を通して社会に訴た
浜田 晋 (浜田クリニック所長)
市井の医者として東京・下町の地域医療を実践、地域社会での精神科クリニック活動の先駆けをなした
1993年
第2回
受賞者
安東 安子 (元・大阪府衛生部保健予防課らい予防事業専任担当官)
長年のらい療養所勤務の経験を生かし、大阪府のハンセン氏病患者と家族の医療・福祉・生活上の救済に尽力
増田 進 (岩手県沢内村・国保沢内病院長)
 岩手県沢内村で、予防と治療の一体化、乳児や老人医療の自己負担無料化など、村独自の保健医療体制を確立
1994年
第3回
受賞者
金子 勇 (長野県阿南町・和合診療所長兼富草僻地診療所長)
35年余にわたり、高齢化の進む過疎の山村で、一貫して僻地医療を実践し、公衆衛生と医療の統一を目指し、ねばり強い取組みを続けている
天明 佳臣 (神奈川県勤労者医療生活協同組合港町診療所長)
農村保健の視点で出稼ぎ労働者の健康破壊問題に取組み、更に社会医学的な分析とともに外国人労働者の医療問題、出稼ぎ者の医療に先駆的役割を果たした
1995年
第4回
受賞者
川島 みどり (埼玉県・健和会臨床看護学研究所長)
昭和40年東京看護学セミナーを結成し、以後現場の看護婦や大学、短大、看護専門学校の教育と研究に力を注ぎ、臨床的看護学のレベルアップに功績を残した
竹熊 宜孝 (熊本県・公立菊池養生園診療所長)
診療のかたわら、20余年にわたり地域住民と一体になり命と土を守る運動、養生運動、有機農業の実践を展開し、年間1万数千人の人たちに「食といのち」の養生訓を説き続けている
1996年
第5回
受賞者
早川 一光 (京都府・堀川病院顧問、幸・総合人間研究所長)
昭和23年京都西陣において診療所を設立以来50年に亘り、路地から路地への往診に徹し、更に「ボケ」問題にも積極的に取組み、患者・介護者の心の支えとなる功績を残している
時枝 俊江 (東京都・記録映画監督)
昭和25年岩波映画製作所に入社以来、記録・教育文化の映画で多くの作品を制作し、さらに医療・福祉の分野で、在宅医療活動の記録映画を制作し、多くの人々に感動を与えている
1997年
第6回
受賞者
加藤 シヅエ (社団法人・日本家族計画連盟会長)
長きにわたり産児調節・家族計画の運動を積極的に推進している。また戦後衆参あわせて28年間政治家として活躍し、特に女性の問題、環境保護問題などに多大な功績を残している
増子 忠道 (医療法人健愛会かもん宿診療所長)
20年余にわたり、東京下町の千住地域において在宅医療を実践するとともに、地域住民の自覚的活動力と、福祉医療専門家とのネットワークを土台に地域ケアのシステムづくりに力を注ぐ
1998年
第7回
受賞者
岡上 和雄 (全国精神障害者家族会連合会精神保健研究所所長)
精神障害者の医療と社会復帰のノーマライゼーションの推進に先駆的かつ偉大な業績を残した。患者会、地域家族会とその連合的な発足を支援し、施設ケアと訪問を一体化した組織的な地域ケアの仕組みを構築した
宮澤 信雄 (フリーアナウンサー)
1968年にNHK熊本放送局に赴任して水俣病事件と出会い、以来30年にわたって行政の責任を問う裁判や事件史編纂などに関わる。そのヒューマニズムに満ちた勇気ある取り組みはまさに感動的である
1999年
第8回
受賞者
Alfons Deeken (上智大学・文学部教授)
『死生学』という新しい概念を確立するとともに学問として定着させ、ライフワークとして『死への準備教育』(デスエデュケーション)を積極的に展開し、日本における死に関する学問と教育の向上に寄与された功績は誠に大きい
受賞講演全文
関口 鉄夫 (長野県廃棄物問題研究会・調査研究責任者兼事務局長)
長野県下の産業廃棄物問題にとりくみ、産廃問題に対する行政のあり方に厳しい提言を行いながら、住民と一緒になって問題解決に努力された功績は大きい。その地域密着型解析手法は全国的に高い評価を得ている
受賞講演全文
2000年
第9回
受賞者
長池 博子 (宮城県・産婦人科医師 長池女性健康相談所長)
差別が当然だった時代に医師になり、戦後の動乱期を経て、産婦人科医として性や生殖の問題に関わってきた。いつの時代でもトラブルの後始末は女性。自分の 人生を計画して生きられるような女性になってほしいと、祈りに近い願いを抱きながら診療に当たってきた。
性の自立の指導、支援のために私立の相談所を開設し、リプロダクティブヘルスの視点で受胎調節に取り組み、特に思春期の少女達や更年期女性の体と心の診療、相談をしてきた。
川村 敏明 (北海道・総合病院浦河赤十字病院精神神経科部長)
「この病を受けたる不幸の他に、この国に生まれたる不幸を重ぬるものと云うべし」と語られた精神障害者のおかれた状況は、80数年を経て基本的に変化していない。
偏見、差別が存在する世間を理解し、治せない精神科医を受け入れ、精神病とともにユーモアを大切に生きようとするチャレンジが「べてるの家」の活動の歩みかと思います。「弱さを絆に」は、べてるの中から生まれた大切なキーワードです。
 
2001年

第10回

受賞者
松浦 尊麿 (五色町健康福祉総合センター・国保五色診療所 所長)
氏は、1946年広島県の上蒲刈島に生まれ、1972年大阪医科大学卒業後、同大学付属病院第一外科勤務を経て、同年11月長野県厚生連佐久総合病院に 入職、その11年間の在職中、若月院長(現名誉総長)の薫陶を受ける。1982年に淡路島の五色町診療所に招かれ、以来20年間、地域医療一筋に打ち込 み、今日に至っている。
氏は、診療所着任翌年の1983年から早速在宅ケアを開始し、以後保健・医療・福祉担当者による在宅ケア連絡会の発足、住民健康管理台帳の作成、町ぐる みの総合検診の開始、住民の自主的健康実践グループの育成支援、学童期成人病予防事業の開始、高齢者世帯全戸訪問調査、通院困難患者宅への巡回診療など、 子供から高齢者に至るまでの、包括的な保健・医療・福祉の実践に先進的に取り組んできた。また1991年に健康福祉総合センターの開設にあたって、その所 長に就任し、高齢者のケアに力を注いでいる。
とくに1988年からは、全国の先端を切ってICカードシステムを導入し、保健・福祉・医療情報の一元化に取り組んだことは全国の注目の的となった。ま た、CATVを駆使した双方向画像による在宅療養支援システムの開発にも関わり、「最先端をゆく高齢者ケアの町」の現場推進者となって活躍している。
20年前、医療過疎の町とされていた五色町は今や先進地に変貌したが、これは氏がニューメディアを積極的に活用しながらも、つねに現場の中で住民ととも に歩む姿勢を忘れず、ロマンを持ち続けながらひたむきに歩んできた努力の結果といえよう。その苦闘の歴史は、氏の著書「死んだてか、まだ生きとらよ」の中 に、笑いと涙とともに語られている。
疋田 善平 (佐賀町総合保健センター長・拳の川診療所 所長)
氏は、1921年滋賀県に生まれ、大阪高等医学専門学校(現大阪大学医学部)および陸軍軍医学校を卒業後、京都陸軍病院に勤務するも4カ月で終戦。
1945年9月から国立京都病院に勤務し、当時国民病、死の病いと恐れられた結核診療に従事するかたわら、結核検診に取り組み予防医学の充実に尽力された。
1972年国立京都病院を退職し、高知県佐賀町拳の川国保診療所に勤務することとなった。この地で予防医学を旗印に、へき地医療のあるべき姿を求め、PPC(Progressive People Care)をめざす仕事を開始された。氏はPPCとは、「全住民の年齢、健康状態に応じてお世話する医療」と定義されている。
氏はこうした精神に基づいて朝6時半から診療所を開き、各家庭への往診も24時間体制で行ってきた。こうした30年にわたる活動は、地域に密着した真の地域医療の体現と言って過言ではない。
過疎高齢化の進む地域にあって、病い、老い、そして死にどう向かい合うか避けて通れない問題である。本人や家族と話し合いを持ちながら、どう生き、どん な死を迎えるのか町ぐるみの取り組みを進めてきた。この課程で「満足死」という概念を提唱され、心満ち足りて最後まで住みなれた家でという課題に挑戟さ れ、全国的にもおおきな反響を呼び、氏が会長を勤める「満足死の会」には現在800人を越す会員がいる。
こうした活動の成果は多くの学会に発表され、たいへん高い評価を得てきた。こうした評価は、すでに高知県医療功労賞、保健文化賞などの授賞として定まっている。
高橋 功 (元シュバイツァー病院医師)
近年国際化の大きな流れのなかで、国際保健医療の分野でも国際協力事業団(JICA)やNGO活動が活発に行われてきている。主として途上国にプロジェクトを設定し、保健医療従事者が情熱をもって取り組んできていることはよく知られている。
氏は細菌学者で赤痢菌の発見者である志賀潔博士の甥にあたり、1932年東北帝大独文科を卒業後、1936年京城帝大医学部を卒業し、東北帝大附属病院眼科に勤務された。戦争中は軍医として会津若松陸軍病院に勤務、その後南方作戟にも従軍した。
終戦後は眼科勤務医として仕事をしていたが、当時赤道直下のアフリカ、ランバレネで病院を建設し、感染症や風土病などの診療に献身的な努力を続けられていたシュワイツアー博士の仕事に、次第に関心を寄せるようになっていった。
もともとキリスト教との縁も深かった氏は、シュワイツアー博士の仕事に心から共鳴し、博士の仕事を助けるべく1958年にアフリカに渡った。以来 1966年に帰国するまでの8年間、ランバレネで住民の保健・医療活動、特にハンセン病棟の担当医として寝食を忘れて従事され、つねにシュワイツアー博士 を支え尽力された功績は特筆に催する。その仕事は戦後の国際保健医療協力の草分けとなり、その歴史のなかに刻まれることとなった。活動の記録は、著書「さ らばランバレネ」「シュワイツアーと共に」などに詳しく記されている。
医療のなかにおけるヒューマニズムが希薄になりがちだと言われるこんにち、氏の純粋なヒューマニズムに溢れた精神と活動に学ぶことの大切さが求められている。
2002年

第11回

受賞者
中村 哲 (PMS院長・ペシャワール会現地代表)
1946年 福岡県生まれ 55歳 医師
ペシャワール会事務局
1973年 九州大学医学部卒業
1984年 パキスタンの古都ヘシャワールのペシャワール・ミッション病院に赴任。
1986年 日本・アフガン医療サービス設立。
現 在 PMS院長 ヘシャワール会規地代表
推薦理由
パキスタン・アフガニスタンにおけるハンセン病治療、難民医療に従事した功績。
1980年代の前半から、勤務医の職をなげうってペシャワールに移り、ハンセン病の根絶活動と難民治療に取り組んできた。極度の貧困の中で医療器具もな い中でのスタートだった。80年代半以降は医療活動をアフガニスタンにも広げ、山岳地帯の無医地区に診療所を設置するなど努力を続けている。
日本国内には、中村さんの活動を物心両面で支える「ペシャワール会」がある。
今回の同時多発テロに伴う米国の報復攻撃という事態の中でも一貫して現地の住民、難民の立場に立って、彼らの救援策を訴えている。常に弱者の立場に立ち続ける医師としての献身的努力に共感する人々は非常に多い。
宮崎 和加子 (柳原病院訪問看護ステーション・総括部所長)
1956年生まれ 45歳 看護師
1977年 東京大学医学部付属看護学校卒業 東京都柳原病院に就職
1978年 地域看護課所属 在宅寝たきり老人の看護活動に取り組む
→地域看護課長 →北千住訪問看護ステーション所長
→現在 看護ステーション統括部所長
著書:地域医療の展望(勤草書房)家で死ぬのはわがままですか(医学書院)ほか多数
推薦理由
日本の地域医療看護、訪問看護の分野に先鞭をつけ、今日まで第一線で活躍している。
1978年、柳原病院地域看護課に所属し、20年間にわたって地域看護、訪問看護の活動に従事し、日本のこの分野における先鞭をつけてきた。特に日本で 最も早く北千住訪問看護ステーションを設立し、看護ステーション設立の地として注目を集めるとともに、全国から集まる訪問看護師たちの教育・指導に務めら れてきた功績はきわめて大きい。
さらに、活動の成果、実践の記録を多くの著書として出版し、国の政策に影響を与えるとともに全国で働く訪問看護師たちに大きな勇気を与えてきた。こうした活躍は、日本看護会における訪問着護の先駆者として高く評価されている。
山崎 倫子 (武蔵野市立北町高齢者センター所長・山崎医院院長)
1919年生まれ 83歳 医師
1943年 東京女子医学専門学校卒業
卒業後、2年間ハルピン医科大学付属病院内科勤務 敗戦後、病院開設、難民及び現地住民の診療に当たる
1956年 武蔵野市に山崎医院開設
現 在 武蔵野市立北町高齢者センター所長 日本女医会名誉会長
汎太平洋東南アジア婦人協会名誉会長(国際役員兼任)
推薦理由
この時代の女性で英語が堪能。これを生かして国際的に国連女性の地位の各種委員会などに参加。珍しいくらい社会性・国際性に富んだ医師。
1986年に自宅を武蔵野市に開放して現在のグループホームのパイロット的施設を夫君と共に開設。
このあたりのメディアにもよくとりあげられた。最近の読売新聞にもこれまでのあゆみを6回ほど連載されている。
 
2003年

第12回

受賞者
額田  勲 (ぬかだいさお)
兵庫県・医療法入社団倫生会みどり病院理事長,神戸生命倫理研究会代表
《表彰理由》
氏は、1995年発生の阪神大震災直後から、医療・炊き出し・安否確認・給水灯油補給等多くのボランティア活動を開始、被災者救済に勤められた。同年、 仮設住宅群の中に仮設診療所を開所し、以来、被災された社会的弱者救済のために、今なお、地域医療活動を続けている。
被災から8年経った今でも貧困や障害に苦しんでいる人、仮設住宅での孤独な死を迎える人も数多くいる。常に社会的弱者の立場に立ち続け、彼らの救援索を訴え実践している一医師としての献身的努力に共感する人々は非常に多い。
松下 拡 (まつしたひろむ)
長野県・教育者、飯田女子短期大学専攻科非常勤講師
《表彰理由》
氏は昭和36年公民館主事兼社会教育主事として松川町教育委員会に勤務。以来松川町「健康を考える会」を中心に健康教育の実践活動を指導し学習を中心と する住民の自主的なグループ活動を育成、健康問題における住民主体の組織的な活動と、その活動を支える保健担当者の役割を明らかにした。
この実践活動は県下の各地域のみならず、全国の健康教育活動や住民の健康を守る運動に大きな影響を与えている。
熊谷 勝子 (くまがいかつこ)
長野県・保健師、飯田女子短期大学専攻科非常勤講師
《表彰理由》
氏は阿南町保健師時代すでに全戸訪問活動による公衆衛生の取り組みを展開し、松川町保健師時代には社会教育活動と密接な連携のもとに保健予防活動に全力 をそそぎ、住民自身の主体的な活動が育つようコーディネーター、オルガナイザーの役割に徹底されたきた。
今日では住民参加による公衆衛生活動の我が国における先進地域として全国から多くの保健師たちが松川町を訪れ研修している。これらの教育・指導に務められてきた功績はきわめて大きく、全国から集まる保健師たちに高く評価されている。
 
2004年

第13回

受賞者
田中とも江 (たなか ともえ)
東京都・NPO法人「市民の立場からのオムツ減らし研究学会」理事長、拘束廃止研究所 所長、厚生労働省身体拘束ゼロマニュアル 委員、福島県身体拘束ゼ ロ作戦推進会議 委員、東京都身体拘束ゼロ作戦推進会議 委員、有料老人ホーム抑制廃止 委員、東北福祉大学 非常勤講師
《表彰理由》
氏は、「看護師の前に血の通った人間であれ」をモットーに、看護の現場に38年を捧げてきた。昭和61年からは高齢患者の治療に伴う身体拘束の廃止に取り 組んだ。「縛らない看護」を行う中で、患者さんの価値観や生活史を理解し思いに沿うことの重要性に主眼をおいた看護の実践が、平成10年の「福岡宣言」へ と繋がっていった。
平成14年に独立。「市民の立場からのオムツ減らし研究学会」を立ち上げ、縛らないケアの普及活動と同時にこれまでタブー視されていた排泄問題に光をあ て、オムツに頼らない排泄ケアの啓発活動に取り組んでいる。痴呆性高齢者の尊厳を守るカギとなる排泄ケアを見直す動きが、現在各方面で確実に広がりをみせ ているが、その原動力としての氏の業績は大きい。
吉岡 充 (よしおか みつる)
東京都・医療法人社団充会 上川病院理事長、介護老人保健施設 太郎施設長、NPO全国抑制廃止研究会会長、厚生労働省身体拘束ゼロ作戦推進会議委員、東京都介護保険を育む会委員など。
《表彰理由》
氏は、老年期精神科専門医として臨床に携わり、昭和61年上川病院内科病棟医師および管理者として身体拘束(抑制)のない医療を開始した。これがわが国 で、身体拘束が重大な弊害をもたらす危険性があり、避けるべき行為として認知される第一歩となった。以来、医師・管理者として現場での取り組みを継続する 他、講演や著書、論文で痴呆性老人の身体拘束の廃止を主張し啓発に努められた。また「抑制死」や「5つの基本的ケア」「痴呆が良くなるとは」などの身体拘 束廃止の鍵となる概念の定義を行い、理論化を行った功績は大きい。
平成12年より全国抑制廃止研究会を設立し、会長として全国各地で研究会を開催。また痴呆性老人の個別的な治療・ケアを目指し、グループホームケアや器楽演奏を取り入れたプログラムを提唱、その普及に努めていることも高い評価を得ている。
黒岩 卓夫 (くろいわ たくお)
新潟県・医療法人社団萌気会理事長、社会福祉法人桐鈴会理事長、NPO「在宅ケアを支える診療所・市民全国ネットワーク」会長、地域医療研究会世話人、医療の心を考える会代表
《表彰理由》
氏は、新潟県大和町診療所にて第一線の地域医療に従事する中から、その充実・在宅ケアの重要性を認識し、1976年ゆきぐに大和総合病院(大和医療福祉セ ンター)の設立に尽力された。これは全国から農村における地域医療・ケアの拠点として注目され、ここから「大和方式」として多くのメッセージが発信され た。92年、もえ萌ぎ気えん園浦佐診療所を開設、翌年医療法人社団「萌気会」を設立、法人を大きく発展させ、現在は診療所、グループホーム、通所リハ施設 など11事業所を持つにいたっている。
また氏は、「全国地域医療研究会」の代表世話人を長くつとめ、地域医療関係者の全国ネットワークづくりに邁進された。その後さらに「在宅ケアを支える診 療所・市民全国ネットワーク」を組織した。これは、民間診療所の医療者を勇気づけ、その活動に希望を与えた点で画期的である。
以前から食と農の安全性問題、最近は農機具災害などにも取り組まれ、農村医学・農村医療・地域づくりの実践者でもあることも高く評価される。
 
2005年

第14回

受賞者
原田正純 (はらだ まさずみ)(熊本学園大学社会福祉学部教授)
最初に水俣を訪れた時、自然の美しさと病気の悲惨さのコントラストは強烈であった。そして胎児性水俣病との出会いは、私の生きざまを決定的に変えた。そ れ以来、45年間、現場から、患者から学ぶことの重要さを悟った。水俣病は「鏡」である。さまざまな現象をそこに映してみるとさまざまなものが見えてく る。それは残酷なまでに現実を見せてくれた。今、この貴重な経験(負の遺産)を次世代や途上国に伝えるために「水俣学」を模索している。「水俣学」は水俣 病の医学的知識の普及ではない。我々の社会のあらゆる営みをそこに映してみるエキサイティングな知的作業である。
宮嶋真一郎 (みやじま しんいちろう)(共働学舎代表)
共働学舎とは、身体的・精神的・境遇上の理由で、家庭生活や社会生活が困難な人たちが、共同生活をし、農業・建築・工芸などの作業を通じて、自信や生きる 喜びを取り戻すことを目指している団体である。1973年、宮嶋真一郎氏によって長野県北安曇郡に始めて設立されたこの団体の拠点は、現在、長野県に2ヶ 所、東京に1ヶ所、北海道に3ヶ所の計6ヶ所に開設されている。この受賞講演においては、設立当時から現在までの共働学舎のあゆみと、その目指すところの 哲学「競争社会ではなく協力社会を」について語っていただく。
2006年

第15回

受賞者
川人 博 (かわひと ひろし)(過労死弁護団全国連絡会幹事長)
私が弁護士として過労死問題に取り組むようになったのは、公衆衛生学研究者であり開業医であった父親の影響を受けたのだと思う。職業の公共性を重んじた父親の姿から、自分の生きる方向性を探ってきた。
18歳の時に見た「ドレイ工場」という映画の1シーンが、今も私の脳裏に焼きついて離れない。働く者が職場で命を絶たれることがあっていいのか。この理不尽さを問い続け、過労死のない社会をめざしていきたい。
徳永 瑞子 (とくなが みずこ)(長崎大学医学部保健学科教授)
途上国で働きたいと思い看護師と助産師の勉強をした。23歳でザイールにある日本企業の診療所で働いた。その後、ヨーロッパの民間団体で、再びザイール の奥地で母子保健・地域医療を行った。1993年から中央アフリカ共和国でHIV感染防止、エイズ患者支援の活動を始めた。エイズの問題は、貧困の問題で あり医療以前に「食べる」という生活支援が重要であり、彼らの自立支援対策を進めた。感染防止の啓発教育は、保健指導員を養成し郡部に拡大している。
2007年

第16回

受賞者
本田 徹 (ほんだ とおる)(特定非営利活動法人 SHARE=国際保健協力市民の会・代表理事)
氏は卒後まもなくの1977年、青年海外協力隊の一員としてアフリカのチュニジアに派遣され、途上国の厳しい医療の現実に直面した。携帯した若月先生の 「村で病気とたたかう」に感動し、1979年帰国と同時に佐久総合病院に勤務した。若月先生の指導のもと4年間農村医療に従事しながら、専門臨床の面では 消化器内科の土台を築いた。1983年東京・日産玉川病院に転勤、日本国際ボランティアセンター(JVC)に出会い、この組織内に海外援助活動医療部会と してシェアを発足させた。シェアとは英語で「分かち合う」ことを意味し、それをロゴにして「市民による協力」をうたっている。最初は協力隊のOB、 OG5~6名や一般市民のボランティアでスタート。85年にエチオピアの旱魃・飢餓問題が起き、現地においてJVC・SHARE共同で1年間バラックの病 院を運営し、5万人の診療を行った。これを契機にシェアの活動を本格化させた。1988年からカンボジアで母子保健活動を開始。92年からは同国農村地域 に医師、看護師、地域保健専門家などを派遣し、郡レベルでの保健システムの構築や保健人材育成・伝統的産婆などのトレーニングに取り組んだ。90年からタ イに看護師らを派遣し、下痢予防のための保健教育、人々の健康に関する意識・生活改善などの活動を展開した。99年から東ティモールでも活動を開始し、診 療支援などの緊急救援活動、医療スタッフを派遣し地域保健活動を行い、とくに2003年以降保健教育の教材開発・保健教育普及員の養成に力を入れている。 近年はタイの東北部でHIV/AIDSとともに生きる地域づくりの活動、カンボジアにおける母子保健およびHIV/AIDS予防啓発活動、南アフリカでの HIV/AIDS陽性者支援、また国内においては在日外国人の医療相談、AIDS相談などの活動、東京・山谷地区や新宿地域などでも、医療に手の届かない ホームレスの人たちへのボランティア医療支援を行っている。
2008年

第17回

受賞者
藤島 一郎 (ふじしま いちろう)(浜松市リハビリテーション病院院長)
私は東大農学部卒業後、浜松医大に入り、当初脳神経外科医となった。最初の担当患者さんが脳腫瘍摘出術後、誤嚥性肺炎となったことから嚥下障害の恐ろし さを知った。当時は嚥下障害のリハビリテーションについての成書もなく全く手探りの状態から、自分なりに工夫して新たな治療法を生み出して行く作業の連続 であった。上手く行かず尊い命を失ったこと、不可能と思われた方が食べられるようになりスタッフや患者さんと共に喜びを分かち合ったこと、これらの連続で 今日を迎えている。
外口 玉子 (とぐち たまこ)(社会福祉法人かがやき会理事長)
45年前、私は保健所から精神科病院へと働く場を変えた。以来、こころ病む人たちが置かれている理不尽な状況に、同時代を生きる者としての目線を問われ、 変革への重い課題に迫られ続けてきた。この20年余りの間、制度化以前より、有志の協力を得て、精神障害者が地域で暮らし続けていくための“拠点づくり” に取り組んできている。
当事者の要請に呼応しながら、当事者もその支え手も相談できる場、安心して過ごせる居住の場、仲間との交流や生活情報を得られる場、そして働く場として、 地域の人々が集い憩う喫茶店やパン工房を立上げてきた。そのような場での当事者の主体的な動きに励まされ、共に社会へのメッセージ発信を試みてきている。 領域を越えたヨコのつながりを大事にしながら、地域づくりに向けて“多様な参加の仕方と柔軟な協働のしくみづくり”の可能性を探っている。
2009年

第18回

受賞者
湯浅 誠 (ゆあさ まこと)(NPO法人 自立生活サポートセンターもやい 事務局長)
私は、ホームレス状態にある人たちや貧困状態に追い込まれてしまった人たちを支援する活動を行っています。活動していると、よく動機やきっかけを聞かれる ことがあります。最初のころ、私は戸惑いました。ドラマチックな動機があったわけではなかったからです。しかし、徐々に「自分にそうさせたのは、どういう 背景だろうか」と客観的に自分史を眺め始めるようになりました。いくつかの「心当たり」が出てきて、それが現在の自分につながっている、と感じるように なってきています。今回は、そういう今の時点から再構成した自分史を主軸にして、私と活動の関わりを考えてみたいと思います。
村上 智彦 (むらかみ ともひこ)(医療法人財団 夕張希望の杜 理事長)
私は、北海道で薬剤師、臨床検査技師となり医療に関わってきました。その後医師となり、北海道で地域医療に従事することを目標に自治医科大学で研修し、北 海道瀬棚町で自分が描いていた地域医療を具体化しました。残念ながら市町村合併でこの夢は破れましたが、その後破綻した夕張で再び北海道の地域医療モデル 作りに挑戦することになりました。限界自治体、少子高齢化、地域間格差、医療崩壊等様々な問題の中での挑戦ですが、そんな中で得られたものも沢山ありまし た。今回の講演ではそんな経緯やこれからの目標についてご紹介したいと思います。
2010年

第19回

受賞者
池田 陽子 (いけだ ようこ)(JAあづみ・総務開発事業部福祉課))
農協の生活指導事業とは「何のために」「誰のために」「何をするのか」を常に問い続けてきたが、協同活動の主役である組合員をステージ上に招き上げ、生き活き(いきいき)と活動してもらう方法論として今に生かしてきた。
また、JAでなければできない福祉活動・福祉事業を実現するため、協同組合の原点に立ち返り、組合員・地域住民と協働して、最期まで自立して暮らし続けることのできる「あんしんの里」づくりに挑戦し続けている。