若月イズムから何を学ぶか

 2006年8月22日午前3時過ぎ病院より電話があり、若月名誉総長が危篤という連絡をいただいたので、すぐ駆けつけたのだが、それから間もなく、ご家族を始め10数人の病院関係者が見守るうち、眠るように息を引き取られた。昭和29年に佐久病院に赴任し、既に50年以上も一緒に仕事をさせていただいた私とすれば、何か心の支えが大きく抜けたような思いである。

 昭和20年に若月先生が赴任されたときには、木造の小さな20床の病院で、病院とはいえ入院患者は1人もなかった。そういう中で、地域で出張診療を繰返し、予防と健康管理の大切さを訴えながら、病院を次々と近代化していき、人口一万数千の町に千床の病院を作り上げたのは、現代における奇跡と言われている。このことは、弱者である農民に都会なみの医療をという若月先生の「ヒューマニズム」の精神の表れでもあった。しかも職員には、「農民とともに」というスローガンに表される佐久病院精神というものを根付かせることを忘れなかった。もし若月先生が居なかったら、今日の佐久病院はあり得なかったであろうとは、誰しも認めるところであろう。

 しかし若月先生は言う。「良い病院というのは、必ずしも病床数が多いとか、高度機能を備えていることとは関係がない。地域住民のニーズにどのように応えているかで決まるのである」と。住民本位ということを、常に考えられていたのである。若月先生は晩年、佐久病院があまりにも大きくなったことを危惧されていた。病院が大きくなると、職員皆の安堵感の中に、いつのまにか「官僚化」が忍び寄り、活性化が失われてくるのではないかという心配からである。

 さらに若月先生は、「農村医学」というものを日本で初めて確立し、これを大きく農業医学と農村保健の分野に分類されて、国際的な学問にまで発展させた。その結果、佐久病院は人びとをして「農村医学のメッカ」とまで言わしめるようになったのだが、しかし私どもの研究の中に、この面での研究を軽視したり、それへの研究意欲が次第に薄れていってしまう心配はないだろうか。

 若月先生が長年にわたって築き上げられ、佐久病院の活動の基となっている若月精神を風化させてしまってはならない。私たちは、もう一度「若月イズム」から何を学ぶか、「佐久病院精神」をどう引き継いでいくか、「農村医学」どう発展させていくか、等について、真剣に討議する必要があるのではないか。