若月俊一先生への想い

長寿社会の原動力となった若月俊一先生の逝去を悼む

作 家  井 出 孫 六

 この夏、私にとって縁浅からざる先輩が次々に亡くなったが、わけても若月俊一先生は私にとって“先輩”と呼ぶほかない存在だったように思う。

 私の郷里信州佐久の臼田という人口7000ほどの小さな町に県農業会立佐久病院が建てられたのは太平洋戦争末期のことで、沈滞しきっていた小さな町にとって、それは一つの事件でもあった。けれど病棟は古い蚕糸工場の木造宿舎かなにかをそのまま移築しただけのもので、町民の期待が充たされたとはいい難く、病院の評価もイマイチだった。

 秩父山塊の遥か東の空がぼーっと茜色に染まったのは1945年3月10日東京大空襲の夜のこと、若月俊一先生が佐久病院の外科医長として赴任してきたのはその直後ではなかったろうか。

 「まもなく戦争は負け戦に終わるよ」と若き医長は周囲をはばかることなく口にしたという。

 若月俊一年譜によれば赴任前年の1944年、「工場災害の研究活動が治安維持法に抵触して、逮捕される。目白警察の留置所に1年間入る」(『母なる農村に生きて』家の光協会刊)とあって、戦時下このような経歴をもつ若き医師を新設の佐久病院に迎え入れ、やがてまもなく院長に据えた県農業会の英断に、今私は瞠目(どうもく)する思いだ。迎え入れられたものも、ここを墳墓の地と思い定めたとしても不思議はない。外科医長の予言のとおり、戦争が半年もたたぬ間に終わったころには、そのメスさばきの鮮やかさが評判となって、佐久病院の外来はにわかに混み始めていったのを目にしている。

 敗戦から2年たった夏、私は北アルプスで激しい雨にうたれて発熱し、秋口になっても微熱がとれぬまま、佐久病院に入院することになった。抗生物質は信州にまではまだ届かず、肺結核イコール死の病と信じられていた時代だ。若月先生がいち早くとりいれていた気胸療法という素朴で奇抜な治療法によって、私の肺の中の結核菌は制圧されたのだが、数カ月の入院と2年にわたる通院のあいだに、若月院長のリーダーシップのもと、戦後農村医療の中核として成長していく佐久病院の姿を私は目撃できたように思う。クリスマスが近づくと、夜、医局の方から歌声がきこえてきたが、それは「聖この夜」ではなく「聞け万国の労働者」といった勇壮な労働歌であり、病院祭には院長の書きおろした台本で病院スタッフ総出の芝居が上演された。歌や芝居はクリスマスや病院祭が終われば、近隣の村々への出張診療に欠くことのできない道具だてとなるはずだった。秩父事件に参謀長として活躍した「菊池貫平」を描いた若月さんの台本は、いまなお私の書架に当時の記憶をきざんで保存されている。

 高校を卒(お)えて東京に出てから故郷は遠いものになっていったが、佐久病院の発展はとどまるところなく、私は出身地を尋ねられると「佐久病院のある町ですよ」と答えるようにもなっていた。かつて信州は「教育県」などとよばれたものだが、いつしか「長寿県」として知られるようになった背後には、若月先生の“力技”とでもよぶべきリーダーシップと佐久病院の発展があって、信州全体の地域医療が底上げされた結果だったといってよいだろう。

 いまから16年前のある日、若月先生から電話があった。80歳を迎えながら張りのある声に幾分の含羞(がんしゅう)をこめて言われたのは、これまでの数々の賞をいただいたが、いささかの基金(ファンド)があるので、永年にわたっての地域医療での実践活動を記念して「若月賞」を設ける計画が進んでいる。ついては同じ町の出身である私に選考に加わってほしいという過分のお勧めであった。門外漢であることのためらいもあったのだが、趣旨には双手をあげて賛成だったので、参加させていただくこととした。若月賞選考の第一の要件は地を這うようにして永年地域医療に貢献してきた医療関係者の表彰にあった。

 以来、毎年東京で開かれる選考会と、佐久病院での若月賞授賞式に参加するのは、私にとって貴重な勉強の場ともなってきたが、卒寿をこえてなお矍鑠(かくしゃく)とした若月先生の姿がここ数年、会場で見ることのできないのが一抹の淋しさとなっていた。今年7月20日、佐久総合病院講堂で開かれた第15回目の授賞式にも若月先生の姿はなかった。

 きけば、しばらく体調を崩されいま入院中とうかがったので、夕刻病室にお見舞いし、仮眠中の先生の手を握ったのが最後のお別れとなった。信州を全国一の長寿県たらしめた人にふさわしく亭年96歳であった。長寿社会はことばを換えれば超高齢化社会にほかならず、いま私たちは歴史上未だ経験したことのない “実験”の時代に直面しているといえる。

 卒寿を迎えて家の光協会から上梓した自著『母なる農村に生きて』の終わりを若月先生は「付けを次の時代に回してはならない」と自戒のことばで締めくくっているが、長寿社会を実現する原動力となった先輩の遺言と受けとめねばなるまい。

(『家の光』2006年11月号掲載から転載)

若月俊一先生を偲ぶ

医師・医事評論家  川 上  武

 若月先生残念でした。申し訳ありません。私が体調を崩してより、病院祭、夏季大学、若月賞選考委員会にここ何年か欠席しました。そのために、晩年の先生の謦咳に接することができず、最後のお別れもできませんでした。

 私が先生に初めてお目にかかったのは、医学史研究会関東地方会(1968年)の例会の席上でした。その時の、先生の報告「暗い谷間での挫折と臨床研究」を聞き、感銘を受け、医療史研究を志していた私は、若月先生の戦中、戦後の活動とその根底にある思想を究明しようと決心しました。

 それから、病院祭、夏季大学に招かれ、必ず出席し、懇親会の2次会では、先生の行動様式を知りました。また、特別の取材でお訪ねした時は、2次会の酒席で先生の歌う唄や若い頃の想い出をお聞きし、先生のゆたかな人間性に接することができました。

 その頃になると、若月先生と私が働いていた健和会との関係も深まってきました。健和会柳原病院は東大医学部闘争の活動家が中心になり、診療・社会活動を活発に行っていました。医局に川崎病の川崎富作先生、胃二重造影法の市川平三郎先生や武谷三男先生(理論物理学者)などに来ていただいて、お話をうかがい、活発に討論させていただきました。80年代のことです。

 とくに、若月先生には再三おいで願い、病院建設、農村医学、農村出張診療、外科手術(これを中二階の患者家族にみてもらう)・・・など、医療、病院経営、大学、政治など多面的なお話をうかがいました。その雰囲気の中で、健和会では「東京の下町に佐久病院を」が合い言葉になりました。

 それを実現した第1歩は、83年11月の“みさと健和病院”(256床)の創設でした。この開院での市民総会には、若月先生に特別講演をお願いしました。この時の若月先生には、出席者に“医療の社会化”“患者のための医療”とは何かを平明に話していただき、健和病院のその後の発展の基盤作りに意味深かったと思いました。

 その後、“みさと健和病院”は規定の300床以下でしたが、“臨床研修指定病院”の指定をうけました。これが佐久総合病院との研修医交流に発展していくのは、若月先生、松島先生のご好意によるものです。病院の医療レベルの向上に寄与するところ大です。

 この間、私個人としては、『農村医学』(1971年、勁草書房刊)の編集を担当させていただき、巻末に「某工場に於ける災害の統計的並びに臨床的研究」(1942年、「民族衛生」)をのせ、その歴史的再発見をさせていただきました。

 また、『農村医学からメディコ・ポリス構想へー若月俊一の精神史』(共著・小坂富美子、1988年、勁草書房刊)を刊行し、私の初心を達成しました。この時に、病院事務とくに総務の方に資料蒐集でお手数をかけました。

 若月先生、本当にありがとうございました。ご冥福を祈ります。

  芙蓉咲き 農村医学や 巨星落つ

若月先生との別れ

医学博士・医事評論家  行 天 良 雄

 ある新聞に“巨星墜つ・農村医療にその一生を捧げた…”云々と書かれていた。

 そうかなあ…たしかに佐久の方々や長野の方々には希望の星であり、月や太陽以上に明るく輝いていた存在であっただろう。でも、別の立場で仕えたというか教えを受けた私にとっては、へだてのない全くおだやかな存在だった。

  太平洋戦争をはさんで、暗い前の時代、そして敗戦、さらに日本の社会が全く新しい方向に狂奔しようとしていた時代。このめまぐるしく変容する中で、村の医者どころか大地に足を踏まえたすばらしい存在だった。

 「僕はねえ…何でもいい加減なんですよ」この口癖をくり返しながら、背を曲げてそれでいて何もたじろがないオーラに満ち満ちていた。

 佐久に若月さんがいて、開拓で送り込まれた人たちに健康とよい暮らしを作って貰うべく、医療を通じて大変な努力を続けている。その様子をぜひ紹介させていただこう。NHKの会議で、その具体的な運動を知り、早速にお邪魔したのは、大阪万博と大阪での医学会総会の準備のため、大阪へ転勤する少し前であった。経済成長に浮かれだした日本の中で荒涼たる八ヶ岳の開拓地、その中をオート三輪のようなもので走り廻っていた人々におどろいた。貧しさからの脱却という極めて重要なことを、淡々として健診活動をとおして行っていた。力みは勿論だが、逆の惨めさも全くなかった。続々誕生しはじめた病院、そして巨大化し形をととのえつつあった近代医療というものとは、全くちがった、構えない医療が日常的に展開されていた。

若月先生を見舞う(筆者左から二人目)
若月先生を見舞う(筆者左から二人目)

 前後する記憶だが、巡回診療の歌も、ある面では泥臭かった。芝居も全くの素人芝居だった。でも、何か筋がとおっていた。

 村の人々の心の中にじわっと入りこんでゆくすごい手法に…何だろう、何がどう動いているのか不思議だった。そして、その不思議の中心に、にこにこ して怒らない、何かといえば佐久病院はサケ病院といって、先頭に立って歌い踊って、何時の間にか丸めこんで、アラ、魔法みたいなものがあった。私はその魔 法使いが大好きだった。

 いい加減いい加減とくり返しながら強靱な何かの筋をとおしてゆく…それがすばらしかった。皆がひきつけられ、佐久は農村医学というより、医療の メッカとして多くの人材を集めていった。夏季大学の熱気、農村医科大学への方向づけ、皆が同じ夢を追い描き続けていた。50年近くたった今、日本は皆保険 に恵まれた医療のあり方への問いかけと、選択が始まっている。これこれこうだといった堅苦しさでなく、それでいてやさしい筋がとおっている。きっと若月先 生がいなくなられた佐久病院は、柔軟な対応をみせながら、眞の夢を追ってゆくだろう。

 亡くなられる少し前、ベッドの上で手を組んで、しっかりと握っていただいたあたたかさが、さわやかに残っている。

 いろいろのことを教えていただいた、本当にありがとうございました。私の思い出では、余りにもやさしかった若月先生とのお別れをしみじみとくり返している。

若月先生追悼 「同窓」のよしみ

NPO法人高齢社会をよくする女性の会・理事長 樋 口 恵 子

 若月先生に初めてお目にかかったのは、もう40年近い昔、駆け出しの評論家だった私が共同通信社の企画でインタビューさせていただいたときだった。その後1983年に私たちが「高齢化社会をよくする女性の会」を立ち上げて以来、その活動を温かく見守ってくださった。1989年、この会が地域医療を見るスタディ・ツアーを企画し、バスで50人が「佐久総合病院」を訪れ、先生から直接講義をしていただいた。参加者中、最年長の女子大名誉教授が、ひそかに用意した花束を「憧れの男性に」と贈ったのが、鮮やかな記憶として残っている。

 その後、夏季大学にお招きいただいたり、若月俊一賞創設以来、選考委員の末席に加えていただいたり、思い出は尽きないが、個人的に御礼申し上げたいのは、1991年夏のできごとである。その8月、北軽井沢の山小屋にいたとき相棒が心臓大動脈瘤破裂で倒れ、まず娘の運転で軽井沢病院へ、そこで若干の処置を受けて、佐久総合病院で2日間、血圧を上げ手術に耐える状況をつくるため万全の処置をしていただいた。若月先生はすでに診療の第一線は退いていらっしゃったと思うが、しばしば枕元に白衣姿でじっと立って見守ってくださった。相棒は、共同通信社時代、若月先生と私の対談記事を企画した男であり、後に大学の教壇に立った。

 ようやく手術の目途が立って、若月先生が非常勤講師として農村医学を講じていた山梨医科大学まで、救急車で転送された。山梨医科大学では、病状を聞いて、いつ「死亡」の連絡があるかと期待していたらしい。無事到着し12時間半の手術に耐えることができた。

拘留されていた東京目白署
拘留されていた東京目白署

 「よほど佐久総合病院の保存がよかったのですね」というのが山梨医大側の感想であった。
相棒はその後、6年半ほど社会活動ができた。その間、社会的には勤務先の大学で大学院新設の責任者のひとりとなり、個人的には老母を長男として見送ることができた。この間の命の恩恵は、本人はもとより周囲にとっても重くありがたいものであった。

 いつであったか、若月先生がお若い頃、公衆衛生に熱心であったため官憲に睨まれ、悪名高き治安維持法に触れたのだろうか、東京・目白警察署の留置場に拘留された、とうかがった。目白警察署と私が通った高田第5小学校(現在は目白小学校)は、小さな道を挟んで隣同士である。小学校の塀際にトイレがあり、そこから警察署の鉄格子がはまった窓が見えた。「悪い人が捕まったら入るところ」と聞かされて、小学生だった私はトイレへ行く度にこわごわとその窓を見上げた。

 若月先生は「いつも隣の小学校から子どもの声が聞こえましたよ」とおっしゃった。 「私たちはすると、同じ窓を見つめた“同窓”のよしみですね」と2人で笑った。

 あの暗い時代にめげず抱き続けた志を、その後の社会で大きく開花させ、多くの命を助け、多くの人々に志を分かち与えた。心よりご冥福を祈りその恵みに御礼申し上げたい。

弔 辞

前滋賀大学学長  宮 本 憲 一

 若月俊一先生は医療、保健、福祉と文化を一体化して、地域に根ざして住民の健康と生活を増進するという現代の福祉社会の創造をされました。

 20世紀最高の劇作家ブレヒトは「ガリレイの生涯」の中でガリレオガリレイに「科学の唯一の目的は人間の生存条件の辛さを軽くすることにあると思う」といわせています。

 若月先生は農民とともに歩かれ、最高の科学技術をもって、人間の生存条件の辛さを少しでも軽くするために生涯をつらぬかれました。権力やお金のために科学技術を使うのではなく、農村のただ中に身をおいて農民の健康と生活を守るために全力をつくし、すぐれた病院を経営されたことはまさに現代の科学者の鑑といってよいと思います。

 若月先生は偉大な教育者でもありました。若月精神とその実践に学ぼうとして、日本はもとより世界、とくに発展途上国の若い医師が佐久に集まりました。医師だけでなく、社会科学者も先生に接して「地域に根ざす」科学と実践を学んだのです。

 いま日本の農業と農村は先のみえない危機の状況にあります。10数年前、私は望月町で農村再生を検討するために宮本塾を開きました。若月先生も病院を中心に若月塾を開いておられ、両塾の交流がすすみました。その第3回の共同のシンポジウムの朝、若月先生が倒れられました。このため交流は中断しています。ここでは、農業・農村が消滅すれば都市も存続できず日本社会は崩壊することを考え、この危機をくいとめて農業・農村の展望を開こうというものでした。若月先生の御逝去によって直接先生の指導や助言をいただきながら、両方の塾が交流する機会はなくなりました。

 しかし、私たちは今後も若月精神に立って、ひるまずに、日本農業・農村再生の道をもとめていきたいと思います。

 私ごとになりますが、若月先生とお会いしたのは30年以上前のことです。NHKで日本を代表する10人の科学者と対談するという番組の司会をした時に、先生をおよびして話をして以来、濃密な交流をさせていただきました。先生から受けた多くの啓示そして現実主義の実践から受けた教訓は、どれほど感謝してもつきるところがありません。心から生前の御厚情に感謝し、先生の志をついでいくことを誓い、弔辞といたします。

 ありがとうございました。

若月先生との出会い

元日本医科大学医療管理学教室主任教授   岩 崎  榮

若月先生ありがとうございました。先生と共に生きることができた幸せを悲しみの中で噛みしめています。

 先生との出会い、魅力溢れる語られる言葉の数々、一語一語が心に響く。それが不思議にも温かいのです。何故なのかな?人間味があり1人ひとりに語りかけるあの姿それが温かさを齎すのだ。あのようなパフォーマンスは誰も真似られない先生にしかできないのですよね。

 私の心の中での先生との出会いは、実に医学部を卒業する年の1957(昭32)年にインターン先の病院として若月先生のいる佐久を目指し友人たち3人と話し合ったことに始まるのです。2人は果たせましたが私は断念しました。爾来佐久へと云うより先生への思いは断つことができませんでした。それから年は経て1974(昭49)年12月に創められ今も続けられている「医学教育者のためのワークショップ」(私は第2回生)の第3回生として故・磯村孝二先生が参加され(私はタスクフォース)1週間寝食ともにし無二の親友となりました。彼と交わる中で若月先生を身近に感じることができました。1980(昭55)年第29回日本農村医学会総会(旭川市)に出席し、磯さんから若月先生に紹介していただいたその時が本当の意味での先生との直の出会いであったのです。先生は若輩の私を十年来の知己のように声を掛けられ迎え入れてくださいました。翌年1981(昭56)年フランス・アビニオンでの第8回国際農村医学会議には発表演題を持っての参加を許していただき、そこで先生と学問的人間性に触れながらの日々を過ごし、地元医師会の毎晩にわたる寄贈によるワインを酌み交わすことができました。記憶に間違いなければ、このときの旅の途次ベルリンの壁崩壊の前の東ベルリンを垣間見ることができたのも、先生が居られたことによるものでした。

第4回国際農村医学会議
第4回国際農村医学会議

  それから3年後の1984(昭59)年には、第9回国際農村医学会議がニュージーランドクライストチャーチ市であり、若月先生の奥様もお元気に参加されていて、美しい桜咲く市の風情に満足したものでした。帰りには、オーストラリア・シドニーでのクルージングで先生を中心に歌に興じて、私も家内共々楽しませていただいたのも、先生とのよき思い出となりました。以来その後は何回となくいろいろの会に招かれ講演をさせていただきました。訪れる度に、先生からは上梓なったばかりのご本に、墨痕鮮やかな美しいサインを目の前でしていただき贈呈されたものでした。

 さて国は先に医療制度改革法を成立させて、36年ぶりといわれる制度改革をしたといっています。表面的には実に美しい言葉で表現されています。曰く「安心・信頼の医療の確保と予防の重視」その中身に盛り込まれたもののほとんどは、嘗て何年来若月先生が提唱され実践されてきたものばかりといっても過言ではありません。今更ながら予防を声高に唱え、在宅医療を推進しようと呼びかけているじゃありませんか?若月先生は先見性があったなどと簡単に言ってほしくないですね。戦前戦後を凄まじく生き抜かれ、わが国のみならず世界のよき保健医療のモデルを築かれてきた、言葉では言い尽くせない類まれなる戦う医師たる人でありました。先生はいつまでも私の心の中に生き続ける先生です。本当にありがとうございました。

農村の心と環境を変えた人若月俊一先生を悼んで

富山国際大学教授  安 藤  満

いかなる時も軸の振れない人

 農村の健康と生存環境について考えるとき、去る8月22日に亡くなられた若月俊一先生の偉大さが偲ばれます。私の経験からしても、多くの途上国の農村では今でもその状況が残っていますが、高度経済成長期以前の日本農村の健康状態は、まさに長塚節の『土』にみられる壮絶な状況でした。1950年までは結核の死亡率が第1位、多くの感染症による悲惨な死亡が跡を絶ちませんでした。若月先生がときに語られたように、長野県の農村地域における治療の多くもまた、感染症と健康への無知との闘いでした。『土』に描写された同じ状況が、若月先生の「私の診療記録簿」(『農村医療の原点』および『若月俊一著作集』第2巻)に記載されており身につまされます。
若月先生の卓越した偉大さは、農村の疾病と健康への無知をもたらすものに対して敢然と闘い続けたことです。その意味で、〝いかなる時も軸の振れない人だ〟 とお会いする度に1人感心していました。近親の方々の語り口からしても、その性格は亡くなるまで続いたのではないかと思われます。

「農民の根性」と農村医療

 若月先生は農村医療に献身されながらも、よく「農民の根性」について語られています(『農村医療の原点』)。農業が発明された以降の人類史の大部分において、殆どが農民だった訳ですから、「農民の根性」は、「一般大衆である私たちの根性」と読み替えられます。
その一般大衆の性格分析が鋭い。第1に「人が好い。深謀遠慮がない」。第2に「だまされ易い。無批判、無反省なのである。イデオロギーなどはない」。第3に美しい面として、「人にやさしい。弱者に対して憐憫の心が深い」。まことに厳しい限りですが、「大衆のデモクラシーが社会を動かす日が必ず来るに相違ない」と、そこに活路を見出している点も若月先生の偉大なところでしょう。
若月先生は、農村医学や臨床医学の分野で卓越した先達として国内外で広く知られています。一方、あの冷酷な戦時下での「某工場に於ける災害の統計的並びに臨床的研究(1942年)」(『農村医学』)は、予防医学と労働衛生の分野における金字塔的仕事として深い感銘を与えるものです。そのため治安維持法違反の嫌疑で1年間、獄中での死亡もかなりに上ったといわれる警察の牢屋(刑務所ではありません)に入れられることとなります。若月先生の言葉を借りると、「戦争反対の言動があったという言いがかりです」。牢屋から出された若月先生は恩師に、「もう東京じゃ何もできないよ」と諭され、佐久病院へと赴任したと述べておられます。その後の悪戦苦闘が、今日農村医学の殿堂として世界に輝く佐久総合病院を築いたと言えそうです。

住井すゑとの対談の今日性

 若月俊一先生は多くの方に慕われていますが、訳もない差別に苦しむ人々を『橋のない川』に描かれた住井すゑ先生にも敬愛されていました。生前御2人が度々交わされた長い対談は、住井先生の若月先生に対する敬愛の念を知り、若月先生を抱撲舎にお連れしたことから始まったものです。御2人の対談の内容は、御2人が出会って初めて語ることのできるものです。振り返って読んでみても、現代に厳しい分析を加えながらも思わず楽しくなる会話です(『食品汚染』および『いのちを耕す』)。年金や医療、自殺の多発にみられるように国民の命の保障を切り下げる一方で、国民負担を増やす現代においては、今更ながら御2人のような巨人がいないことに寂しさを禁じ得ません。

中国語訳された『農村医学』

 本来21世紀初頭は、夢の語られる中で過ごすことになるだろうと感じていましたが、2001年9月11日以後の出来事は、先が如何に読めないことか人間の無力を思い知らされています。今、相変わらずアメリカ合衆国ブッシュ政権によるイラク侵略が続き、爆弾で武装した自爆による抵抗が頻発し、社会的不安が広がっています。将来への不安を残す石油市場の高騰や資源を巡る国家間の紛争は、国際親善に根ざした早急な対応を求めています。この点でも若月先生は卓越した人柄を示されてきました。

深沢七郎氏との「ヒゲダンス」

 侵略され国を分割され多くの同胞を殺された場合、国民感情として侵略した側の国民を尊敬する気持にはなり難いのが普通の感情です。世界最大の農村人口を抱える中国に農村医学会を創設し、農村医療の改善に生涯を捧げてきている張自寛先生が若月俊一先生を尊敬して、中国が困難を抱えていた1990年頃話されたことがあります。「若月先生の仕事は偉大です。今多くの中国農村は若月先生が『村で病気とたたかう』に著された状況と同じです。私たちは若月先生の仕事を参考に農村医療の改善に取り組んでいます。その指針として、若月先生の『農村医学』を中国語訳して全国の農村病院に配りました」。日本において若月先生の偉大さが判らなくなりつつある時、日本の侵略により過酷な被害を受けた国で評価が高まりつつあるのは、戦前戦中の軍国主義に屈しなかった若月先生の偉大さがもたらしたものかもしれません。

 若月先生は87歳の時の講演の際、このような時代に触れて、「これからの世界は発展途上国の問題をしっかりやっていかないと、進んだ国だけではやっていける時代ではなくなった。いくら日本がアメリカさんと仲良くやっても、それだけではうまくいかないのではないか。それにはまさに『人間』という広く深い問題を前面に出さなければいけないのではないか…」と述べています(1997年日本農業研究所における講演)。

 物質的欲望の象徴である資源を巡り頻発する世界的紛争に対して、若月先生が ″共に将来に責任をもつ人間としての深遠さが必要〟 と諭されているように感じます。

若月先生の人生に感動した

 実は今回のタイトルを掲げて、10月7日からの大学祭に、若月先生の業績を写真とビデオを用いて展示致しました。その展示を見た学生の感想を最後に記載し、若月先生の追悼と致します。

 「“なんと言っても佐久が好き”プロジェクトXの中で若月先生が言った言葉。私はこの言葉が一番印象に残っている。“農村・農家のことをよく理解して医療をしなくてはいけない”という若月先生の思いを綴って書いたノートは、農家一軒一軒のことが事細かく書いてあった。病気=怠け者と言われていた時代、 “過酷な農作業をしている農民を助けたい”そんな先生の思いから集団検診が生まれた。“自分のことより患者のことを考える”そんな先生の誠意ある行動が実を結び多くの農村の人たちに受け入れてもらえるようになったのだと思う。農村に新たな風を吹かせた若月先生の人生に感動した」(条谷晴奈)。 

 若月俊一先生、長い間ご指導有り難うございました。安らかにおやすみください。

(文化連情報10月号掲載から転載)

あこがれの人、若月俊一

諏訪中央病院名誉院長 鎌 田  實

 『村で病気とたたかう』(岩波新書)を学生時代に読んで、若月先生にあこがれて、八ヶ岳をはさんで反対側にある諏訪中央病院に赴任した。先生のような地域医療を行いたいと思ってやってきた。夢はすぐに破れた。外来で待っていても患者さんが来ない病院だった。

 ぼくは先生がよく使う「ヴ・ナロード」という言葉を思い出した。「人々の中へ」という意味だ。

 農村に入るときには「むずかしい話はするな」の先生の教えを守り、脳卒中を減らすために、多い年には年間80回、スライドを持って集落を回った。住民に信頼されない

さびれた病院は、地域へ出ていくことによって、新しい絆が生まれていった。 

 住民の医療に対する思いも聞くことができた。地域にねたきり老人がいることにも気がついた。在宅ケアや、当時制度のなかったデイケアをはじめたのも、地域に出て住民から学べ、という先生の教えからだった。

 7年前、『命があぶない 医療があぶない』(医歯薬出版)を上梓するために、先生に対談をお願いした。先生の言葉が昨日のように思い出される。 

 「たった一つ自分が誇れるのは、信州の山のなかから抜け出さなかったこと」 「何をやってきたのかと問われれば、医療の民主化と答える。達成できたのは希望の2、3割かな。地域の民主化がなければ医療の民主化もできない」 「大学医療に対立して、地域医療の第1線性を考えてきた。住民にとっては、大学医療より地域医療の方がずっと大事だと思う」

少年のようだった地域医療の神様

 5年前、諏訪中央病院の若手医師を10人ほど連れて、佐久総合病院との交流会に行ったところ、腹部大動脈瘤破裂の手術後、間もなかった先生がわざわざ顔を出してくれた。

 病院のスタッフがハラハラするなかで、先生は「もういっぱい、もういっぱい」と、楽しそうにお酒をお代わりした。地域医療の神さまは、まるで少年のようだった。

 「ぼくは鎌田君が好きだから…」と何度も繰り返した。うれしかった。こうやってたくさんの若い医師たちを魔法にかけてきたのだろう。

 若月先生にあこがれて、たくさんの医師たちが大学から離れて、地域医療に夢を持った時代があった。今から35年ほど前の話だ。このおかげで小さな地方が救われたのだ。 

 マンモス病院を作り上げたすご腕の病院経営者でありながら、「損得の計算じゃない、弱いものを守り、助け合うことが大事」「人間の1人ひとりを大切にしていくことです。差別をしてはならないのです」と、先生はぼくにおっしゃった。いくつになられても青年のような空気をもっていた。

 先生にあこがれて、地域医療をやってきて悔いはありません。心から感謝です。

(日本医事新報 9月9日 NO4298から転載)