若月俊一の個人史 ~農民とともに~

幼年期~学生時代

松校学友との写真は左から2人目が若月
松校学友との写真は左から2人目が若月

父・幸作、母・あき の三男として生まれる。大正6年、芝神明小学校入学、大正11年、東京府立第一中学校入学。関東大震災の後、湿性肋膜炎を患い入院。2ヶ月半の快適な入院生活とやさしい看護婦さんの影響で医師への道をぼんやりと考える。

17歳で旧制松本高校に進学。文芸部で詩や歌をつくる。2年生ころからマルクス主義に傾斜、マルクス、レーニン、ヘーゲル、ブハーリンなどを読みあさる。21歳で東京帝国大学医学部へ入学。22歳で学生運動に参加したかどで無期停学。23歳で1回目の「転向」をして復学。絶望的な敗北感を味わう。

医師への道程と『偸盗』

昭和11年、26歳で東大を卒業するが、どこの医局からも入局を断られ、分院外科の大槻菊男教授に拾われて厳しい指導を受ける。5月に高橋次ヱと結婚。

翌年第一師団麻布歩兵三連帯に入隊、満州チチハルに出征。衛生部幹部候補生試験に合格、内地に帰還し軍医学校に学ぶ。昭和13年には肺結核で第一陸軍病院に入院、退院と同時に除隊となる。

初年兵戦友と。右端が若月           入院生活の同僚と。若月左から2人目
初年兵戦友と。右端が若月        入院生活の同僚と。若月左から2人目

東大分院外科医局に戻り、大衆の役に立つ技術を身につけようと決心。この頃つくったのが「偸盗」。

  偸盗(ちゅうとう)

我もし民衆の友たらんとせば
今こそこの大学の宝庫より
真の宝石を選びて 身につくるべし
真の技術と学問を盗み出して
民衆の中にもどるべし
しかり、まさにこの宝物を もち去るべく
我は偸盗となるべし

 ----- 空襲警報の暗黒の中にありて
わが眼ひとり不逞に かがやく
(当時の日記から)

拘禁されていた当時の目白署
拘禁されていた当時の目白署

石川県小松市の春木病院に出向、小松製作所で工場災害の多発原因の統計的観察を行う。
昭和17年「某工場における災害の統計的並びに臨床的研究」を「民族衛生」に発表。
昭和18年「作業災害と救急処置」を東洋書館から出版。

昭和19年1月28日、治安維持法違反のかどで警視庁に逮捕、目白署に拘禁される。
工場災害の研究などで共産主義の煽動したとの嫌疑。しらみに悩まされたが、恐ろしいのはカイセン(疥癬・ダニの一種)で、腎臓をやられ尿毒症を起こし哲学者・三木清、戸坂潤なども拘禁中に死亡している。2回目の「転向」後、12月下旬、起訴猶予で釈放。自殺も考える。

 

留置場の高き小窓の夕焼けよ

長き真夏のひと日を終わる

解放ののぞみもいまは消え去りぬ

襦袢の虱をひたすらさがす

 

佐久の地へ

当時の佐久病院は製紙工場の寄宿舎をもってきて建て直したもの。
当時の佐久病院は製紙工場の寄宿舎をもってきて建て直したもの。

大槻教授は意外にも怒りはせず、「自分は天皇の侍医だから東京に残るが、君のような新しい考えをもった若い者は、次の時代の日本のために働いてほしい」と佐久病院を紹介。

昭和20年3月6日、初代の松岡院長と若い女医さんだけの佐久病院に外科医長として赴任。農民のためにしっかり働く決心をする。東京大空襲の4日前。住んでいた家の付近一帯は焼け野原となっている。佐久病院は20床ということだが入院患者はとったことがない。朝から晩まで手術の毎日、入院も増える。それまでは外科手術は長野市まで行かないとできなかった。

当時の院長室(2階)の前で。階段には「農民の保健のために」と書いてある。昭和26年。
当時の院長室(2階)の前で。階段には「農民の保健のために」と書いてある。昭和26年。

出張診療と演劇

出張診療のポスターと演劇
出張診療のポスターと演劇

あまりにも多い手遅れ患者と農民の健康犠牲の精神を何とかしなければ、と病院からでて出張診療をはじめる。診療の後は演劇や人形劇、コーラスなどで健康教育。

劇団部の結成は20年11月、初演は「白衣の人々」。

農民とともに

農村医学発展の時期。こうで、農薬中毒、農具による外傷、寄生虫病などの農村特有の疾病の研究がすすみ、日本農村医学会が昭和27年に設立。若月が会長。
昭和36年、「冷え」のフィールドワーク。八千穂の佐口地区で15戸の農家に石炭ストーブを入れて3年間観察、血圧、リウマチ、神経痛などに改善がみられた。

それまでは蚕や米のお金が入った時に支払えばよかったが、保険の制度が変わる。医療費の窓口徴収に反対して、八千穂村・井出幸吉村長らと何度も県に陳情に行くがダメ。それでは病気にならないように健康管理に取り組もう、と昭和34年には八千穂村で全村健康管理を開始。

「地域での保健活動を始めたのは、病気を治すだけではだめだ、病気をなくす仕事もやらねばならぬという発想からであった。しかし巡回診療はその場限りになりやすい。健診を定期的に、しかも村ぐるみで行おう。---- これを八千穂村で初めて行うことになったのである」

第4回国際農村医学会議
第4回国際農村医学会議

八千穂村の総医療費は最初の数年は上がったが、その後国、県の平均より下がっていく。
いまでも八千穂の老人医療費は低い。当時の村山厚生大臣、大谷公衆衛生局長(故・前若月賞選考委員)らが視察来院。昭和57年からの老人保健法の基礎データとなる。

国際農村医学会を始め、若月の国際的な業績もすすんでいく。
第4回国際農村医学会議を佐久総合病院で開催(昭和44年)。欧米の進んだ農業医学と、アジア的農村保健の架け橋の役目をする。以後平成9年まで事務総長として学会をまとめる。

マグサイサイ賞授賞式
マグサイサイ賞授賞式

ロックフェラー財団の後援によるフィリピンの「マグサイサイ賞」を受賞(昭和51年)。東洋のノーベル賞といわれ、日本からは市川房枝、石牟礼道子、緒方貞子、平山郁夫などが受賞している。

名誉総長に就任し実質的に佐久病院の管理運営を離れた晩年も、講演、執筆などを精力的に行う。

県内外からおよそ3200人が若月先生との別れを惜しんだ。
県内外からおよそ3200人が若月先生との別れを惜しんだ。

平成18年8月22日逝去。「お別れの会」は10月7日しめやかに執り行われた。

また、職員・OBによる「若月先生を偲ぶ会」は10月28日に開催された。

若月俊一略歴

昭和11年3月、東京帝国大学医学部医学科卒業、同年4月、東京帝国大学附属病院分院外科医局勤務、昭和12年1月第一師団麻布歩兵三連隊第六中隊に入隊、同月満州チチハルに出征、4月、衛生部幹部候補生試験に合格、6月、内地に帰還、見習医官として軍医学校に学ぶ。昭和13年除隊、東京帝国大学附属病院分院外科医局に戻る。

昭和20年3月、長野県農業会佐久病院に外科医長として赴任し、昭和21年10月院長となる。

昭和22年12月、学位、医学博士取得、昭和25年9月、長野県厚生農業協同組合連合会佐久総合病院院長となる。

平成5年11月佐久総合病院総長、平成10年4月佐久総合病院名誉総長。平成18年8月22日死去。

昭和56年5月、勲二等旭日重光章、51年8月、マグサイサイ賞(フィリピン)受賞。他に農林大臣表彰、保健文化賞、長野県知事表彰、日本医師会最高優功賞、信毎特別賞等受賞。

国際農業農村医学会名誉会長兼事務総長、社団法人日本農村医学会理事長、日本農村医学研究所長、社団法人日本病院会副会長、全国公私病院連盟常務理事等を歴任した。