待ったなしの再構築を願う

(現.JA長野厚生連専務理事)
※佐久病院広報誌「農民とともに」168号(2007.02)より抜粋※

〈佐久病院の現在とめざす方向について〉

 佐久病院は、創成期から多くの危機を乗り越え発展し続けて、50周年を迎える頃からこの10年間、再構築を迫られてきた。建物の老朽化は著しく、入院患者さんにとってはもちろんだが、従業員にとってもますます耐え難い環境になってきている。東信地域の中心病院として、拡大発展してきた医療機関の役割を充実させるには、あまりにも手狭になった敷地問題の解決も急務であった。一級河川の河原を仮設の駐車場として借用している窮状は明白である。 加えて、バブル経済崩壊に続く景気低迷と社会構造の変化(高齢化社会・少産社会・人口都市集中など)をうけて、国家的な医療制度の抜本的見直しが続いている。
11年前、松島院長のもとで「病院を中心とした町づくり」(メディコポリス構想:川上武)が提案され検討を開始していた。区域を超えた行政協力がえられにくい中でも、合併前の臼田町を如何にして暮らしやすい町にするかが、病院再構築を考える委員たちの念頭にいつもあった。
先ず、最も劣悪な療養環境の精神科病棟の一部を、美里の農村保健研修センターに隣接した場所に移し、美里分院として出発した。現在地での本院再構築を目指した「基本構想」の検討を進めた結果、機能拡充を図るためには超高層化するしかないことが分かった。隣接地の確保にも十分な見通しが立たず、地域の中核病院として日常診療を行いながらの「再構築工事」は、極めて難しい事業であることも明確になった。行政から問題解決への積極的な支援もえられず、「現在地再構築案」には地元要望の声だけが残る結果となった。
そこに浮上したのが旧佐久市南インター予定地付近への誘致要請である。当初よりこの提案には、高速道路誘致を優先した都市計画、戦略が感じられたものだった。具体的に検討する前に、「市町村合併」の思惑に翻弄されて、いたずらに時間を浪費する結果となった。検討途上にあるので細かい事実関係の記述を控えるが、分割移転(地域中核病院)予定地として、佐久市役所近くの長期遊休地4万坪をツガミ製作所から2005年8月に譲渡していただくことになった。

〈1.医療を取り巻く環境の急速な変化〉

 戦後復興による人口増加と経済成長の波に呼応する形で、国民皆保険制度が成立し、医療を提供する施設・病院も発展してきた。多くの市町村も病院や診療所を開設し、住民の要望に応えようとした。市町村長を志す人の「公約」に病院開設が多く上げられていたものである。現実の運営面では、医師を確保することの困難さや、経済的負担の多さなどが継続した課題だった。住民の求める医療を用意できた病院は極めて少なかったといえる。  
その数少ない「住民の求める病院」、いや、それ以上のことを佐久病院は成しとげてきたと思う。農業協同組合、即ち民間の力、地域住民の力と願いに応えて、創り上げられたのが「佐久病院」の現在だと思う。
全国で地方の病院は、医師不足でますます窮地にたっている。私は前職でも14年近く、農村僻地や無医村・無医地区に病院を建設する運動に携わってきた。大学医局に医師の派遣をお願いに日参した経験をもっている。当時でも大学には、離島や農山村の医療を維持し支援する余裕や姿勢は少なかった。医療の公益性や医師の公僕性などが問われた過去の「インターン闘争」や「大学闘争」での医学教育、医局制度改革の議論は、徒労だったのかとさえ思った。
昨今、大学病院の独立行政法人化にともなう組織変革が行われているようであり、生き残りをかけた「改革」が謳われている。地域の医療を担う医師の育成などを具体的に担保する方策は、未だ見られない。
市町村の財政難・経済的破綻問題は、大合併などの施策をもってしても、深刻である。住民の要望に応えて医療機関を維持し、毎年数億円の経済負担をすることが困難となってきている。国公立病院の民間委託や民営化などもいわれている。いわゆる「小泉改革」に代表される「民営化」が、民間に任せれば効率よい運営が実行できると主張しているとすれば、間違っていると思う。経済至上主義的な民営化では、国民医療の公共性・公益性を放棄することになりかねないからである。ここで、生きるも死ぬも金次第という自由主義経済型「米国型医療制度」の模倣を図ってはならないと思う。
バブル崩壊後、民間医療機関などでは吸収合併が行われ、経済性の高い医療機関のいくつかが、「医療固有」の資本形態から「経済活動」型の資本に組み込まれている。中には「国外」の資本に相当頼っているところもあると聞く。国民の生命を守る事業を資本の論理、経済主義の前に投げ出してよいものかと思う。高負担・高福祉をめざす国づくりも世界に多くある中で、日本の医療のあり方が問われている。

〈2.「新病院=佐久医療センター」とは:地域中核病院〉

 保健予防活動を重視して、競合しながらも誠実に地域の医療を進めてきた「長野の医療」が近年評価されている。その本質を捉え直して「新病院・医療センター」を考えたい。
MRIそしてPET-CTなど画像診断の領域だけでなく、高額医療機器を個別の病院に備えることは、経済的な負担が重くなり困難である。

 さらに増加が予測されている生活習慣病やがん等の早期診断・早期治療など、診断機器の充足だけではなく「医療の質」を技術的にも高める必要が病院に求められている。人口42万人余の東信地区に、大都市に遅れをとらない高度「診断機能」と「治療」を行える病院の再構築が急務となってきている。
高度先進診断機能を持つ「センター」は、大小を問わず地域の医療機関が共有共同使用できる施設・運営にするのが良いと思う。それが連携体制の具体的方法であり、住民にとっても検査などの無駄や経済的負担を軽減すると思われるからである。

 現在の救命救急医療体制は、かなり切迫している。佐久病院は時間外診療を含む救命救急医療体制を堅持してきたが、周辺の医療機関の体力低下により、負担の度合いは急速に増している。その解決方法としての「機能分化」も必要である。時間外診療に相当する部分をそれぞれの地域医療機関で受け持ち、救命救急部門を新病院に集約する必要があると思われる。麻酔科医不足などで、救命救急を事実上停止している病院も多い。今後もその解決の兆しはない。病院勤務医たちの業務負担を少しでも軽減できる体制を検討すべきだと思う。
小児科と産科が共同で行う「周産期医療」も、厳しい現実を熟慮した解決を図るべきである。お産では異常分娩も増えていると聞く。妊娠、分娩、育児にかけての、継続した医療と教育環境を整備することも重要である。診療制限をする公的病院がある一方で、頑張り続けている佐久病院スタッフの、自己犠牲的な労働環境を一刻も早く改善しなければならない。

 現在の佐久病院の労働環境は劣悪といっても過言ではない。病院で働く医師たちの「燃え尽き症候群」は、過去に例をみないほどの実態である。新病院構想に解決・改善する方向を緊急に求める最大理由のひとつでもある。
このような医療センターという新病院構想は、若い医師や医療従事者たちが「高度先進医療」の技術を求めて遠くに留学しなくても、この佐久の地で研修研鑽ができる環境づくりを目標に考えている。結果として、地域住民に高度先進医療を身近で提供し、それを担う医療従事者を育てる場所となり、他の地域から若者が多く集まる病院に発展させたい。
医療を受ける立場も、医療現場で働く者も、双方が納得して喜べる環境を確立することは、この佐久地域で可能であると確信している。

 新病院・医療センター構想の立地条件には、以下のことなどが考えられる。

・東信広域の住民が利用しやすい場所。
・交通網の要所で、さまざまな交通手段が可能なこと。
・自然災害などの恐れがない場所。
・病院建設による環境破壊を起こさない場所。
・地域の行政などの中枢施設と連携を持てる場所。
・将来構想の展開できる十分な広さの敷地があること、など。

〈3.「地域医療センター(本院)」とは:佐久病院のこころを燃やし続けるところ〉

 佐久病院を語ることばに「農村医療」「地域医療」「在宅医療」などが多い。最近「国際医療」にも理解ある病院だということで来る若い人もいる。
初期研修の受験面接で、「信州に上医あり」(南木佳士)を読んで来る青年が多い。卒後研修義務化前は「村で病気とたたかう」(若月俊一)を読んだ人も多かった。共通するのは、若者たちは何かを感じて来院したことである。地域に病院が存在し続ける本質に共鳴しているのだと思う。理念「農民とともに」の意味そのものにである。
当初は「農民のために」であったという。これは正しく当をえたことば、闘いの宣言である。若月先生と仲間たちが感じたこの村及び戦後社会に残る封建制との闘い・民主化闘争は「人民の中へ」のスローガンと重なり、彼らの意気軒高さが伝わってくる。
地域に「病院」があることで、住民が安心して暮らせることが大切なことである。地域医療センターは、地域に暮らすあらゆる世代の「外来診療」に応える姿勢を堅持することが重要である。「在宅療養」を支え続ける体制もさらに拡充すべきだと考える。
出張診療をはじめ、農夫症や潜在疾病、そして八千穂村から始まった「全村健康管理活動」の歴史的実績を大切にしたい。「生活習慣病」予防対策など、佐久病院が地域住民とともに活動してきた「保健予防や健康増進」を進めるセンターの充実を図りたい。
また、若月先生が当初より、医療だけでなく、生涯教育の場所、文化交流の場所、人々の出会いの場所として地域住民に提供した活動も、継続し発展させるべきであろう。
病院の周囲は老人も障害者も安心して歩ける環境が必要である。低層の共同住宅に暮らし、畑や庭を楽しみ、近所づきあいも負担が少なく、病の治療も望むなら在宅で受けられる。そのような町を再生させる核となる運動体の中心に「病院」を置くべきだと思う。
衰退再編期に入った町は、自力での再編再生能力を失っている。今こそ、知恵と力を集めて「協同の精神」で、暮らしやすい町づくりを考えるときだと思う。故郷のない都会で疲れた人たちも住める、暮らしやすい町をつくり始めるときではなかろうか。

〈再構築を考える私見〉

〈1.町に病院が存在する意味〉

 国内外の医療実態の一端を知る私は、「空気のごとき佐久病院」と評されることに、納得できないものを感じる。住民も行政に携わる人たちも、本当に医療に困った経験がないからなのか、ぜひ、「佐久病院が衰えた」ときを想像していただきたいものである。
人間にとって「いのち」ほど大切なものはないかもしれない。壮大な権力を手にしたエジプトの王にしても、永遠の生命の蘇りを信じ求めて、ピラミッドを造成した。その生命が危険に晒されたとき、即ち病気やけがなどのときに助けてくれるのが病院といえる。身体的な不調ばかりではなく、最近は心の悩みや不安も「病院」に助けを求めるようになってきている。

〈2.病院を活かした町づくり〉

 これまで、病院を利用した町をつくってきたといえるだろうか。病院前商店街は、病院があることで栄えてきたのだろうか。臼田は南佐久郡の郡都として警察署をはじめ行政機関などの主要な施設が配置されてきた。そこに対峙するように佐久病院は若月先生の先見性と時代の追い風に乗って、発展拡大してきた。しかし、時代は拡張・発展から縮小・再編の時代に入った。
佐久病院は、在宅往診から訪問診療・訪問介護まで、日本でもかなり早期から活動してきた病院である。1200床規模の大病院では最も老舗である。しかし、地元の住民がこの活動を十分に理解して、町づくりに活かしてきたとはいえず、病院側も「安心して暮らせる町」づくりに、「地域住民とともに」取り組んできたとはいえないかもしれない。今回の再構築問題を契機にともに考え、暮らしやすい町づくりを進める時代が訪れていると思う。
高齢化が進み、無人となった旧い住宅がかなり多く見られる。欠けた櫛の歯のような住宅地を、今後いかに再生するのだろうか。人口減少にともない、土地価格は相対的に下がる時代に、今更、田畑を埋め山を削って宅地にする必要はないだろう。人が長年住み慣れた安全な土地に、安心した暮らしを保証できる住宅を提供することだと思う。
佐久病院が設立の基本精神「農民とともに」(地域住民とともに)を堅持するかぎり、地域に支えられ、地域を支えて、共存共栄し続ける町が再生できると思うのだが。

〈3.年金受給者をねらう事業の危うさ〉

 雨後の竹の子のごとく、都市部では「ケア付きマンション」が建設されている。
都市から離れられない、退職世代の住処として、働き蜂人生の後半に納得できる「暮らし」がそこに存在するだろうか。新たな人間関係や、自立した尊厳の保てる社会がつくれるだろうか。もはや帰るべき故郷のない人、帰らない人たちが退職後の棲家を探す時代である。老親を見送った介護の経験から、子どもにはこの苦労をさせたくないという親心から、自分たちの「新居」を求めている。
裏切られつつある国の年金制度とは異なり、新しい事業者は「必ず、最期まで保証」してくれるのだろうか。企業戦士を生き抜いて得た貯蓄と退職金などが、吸い取られてしまいそうな危険さを感じてしまう。
年金を担保に、第二の人生を海外に求めた人たちもいる。私の知る人たちの多くは、夢やぶれて、ひっそり国内に安住の地を探している。私たち日本人は、「甘えの構造」(土居健郎)の中で育ち、幸せな老後を信じて一生懸命働いた。そして熟年期を迎えて、新たな自分探しの挑戦を始めるのは、結構つらいものだと聞いている。
死生観の違い、特に「病気」になったときの大きな戸惑いと不安を彼らは感じるという。異国の医療機関が信じられない、迅速な対応をしてもらえず医療費が高いことなど、日本の医療制度や病院体制との大きな違いに、不安や衝撃を受けるようだ。

〈4.教育環境を考える〉

 長野は教育県だと私は思う。全国を歩いた印象から受けることは、診察室で出会う方(特に女性)の、知的好奇心の高さに敬服することが多い。厳しい生活環境の中で、学問をすることの大切さが、文化として身についておられる。農閑期の冬場に多くの勉強会に誘われて、医療講演をさせていただく機会も多かったこの10年余りである。
高校の全員入学・義務教育化がいわれて久しく、新設大学も急増した結果、大学の全員入学時代になった。淘汰される大学も見聞する状況で、生き残り策に福祉関係の学科設置が急増したのも、「時代を映す鏡」といえる。これからの社会で、彼らの働く場所が確保され、彼らの働く心の支えとなる理念が育てられているのだろうか。
最近では看護大学の新設も盛んである。各県一医大構想の下に医科大学が増設されたが、医師の偏在と医師不足は相変わらず解決されていない。看護大学の増設結果が、医科大学の二の舞にならないといえるのか。やはり、医療や看護とは何かを問いかけ、地域の求める医療や看護とは何であるのかを教えることが重要だと思う。
医療の現場で発展を支えてきた団塊世代が定年を迎えると、看護師不足が深刻化する。看護専門学校を希望する若者も減少して、医師不足に加えた看護師の不足が、医療をさらに危機的な環境に追い込みそうである。
なかには、4年制大学を出たけれども、構造不況下で生きがいを求めて、改めて医療・福祉関係の専門学校を目指す人もいる。動機や志も高く、よく努力するこの姿をみるにつけても、生涯教育の機会と場所を提供する必要があると思う。
私はそのひとつの原型を、デンマークの「国民高等学校」に見ている。140年ほど前、肥沃な土地を強国ドイツに奪われたデンマークで起こった活動である。教師であり牧師であったニコライ・グルンドヴィーは、国に唯一残された資源は「人材」である、と教育運動を始めた。それが、農村青年の全人教育をめざした「国民高等学校」(フォルケホイスコーレ)である。その運動は大正時代に「農村振興」のモデルとして、日本に紹介されたこともある。学ぶのに年齢を問わず、国民即ち農民たちに「教育の場」を用意したのである。この「ひとを大切にする」基本理念は現在まで続き、デンマークにおける幼少時から高齢期までの生涯教育を支えている。

〈5.都市に偏在する医師と看護師たち〉

 片田舎の臼田に、200人以上の医師が働く「佐久病院」は奇跡である。決して良いとはいえない労働環境に、集まってきた若者たちの心意気を大切にすべきだと思う。類まれな若月先生をはじめとする「指導者たち」の存在ぬきには語れないことである。若者に、彼らが語り続けた中身(理念)が重要だと思う。「農民とともに」という、この地域に暮らす人々とともにあり続けることを実践し、教育し続けてきたことである。自分のための学問でなく、住民のためという姿勢が、今日の佐久病院を築いたと思う。国家や権力者たちが「国家社会のため」と謳うときは、滅私奉公や殉教者へと国民を追い込む怖さがある。この病院の出入りの自由さは、格別である。来る者拒まず、去る者追わず。
最近の若者に、「有名病院=佐久病院」での研修を求めてくる人もいる。教える立場から、徒労を感じることもあるが、人は変わる、変わり得ると思う。この佐久病院で初期に感じた「農民とともに」の精神・気風を、若者たちが医療の場で、いつか蘇らせて欲しいと願っているこの頃である。また一方、高度医療にともなう知識や技術の習得を受けられる環境の充実を図ることも重要である。この佐久の地で、地域医療センターと新病院が両輪(若月先生のいう二足のわらじ)として、地域医療機関と補完し合いながら発展することを願っている。

〈6.道路の意味を問う〉

 本来の道は、村と村を結ぶ路だった。しかし、牛馬から自動車へと主役が変わった。鉄道を主体とする交通網もやがて、自動車輸送に変わり、道路は村を素通りする「バイパス」となり、村は置き去られ忘れられて消えていった。道路建設が錬金術の道具となり、便利さのかげに村や町が壊れてしまった。経済活動を優先した「公共事業」の見直しは遅きに失したが、未だにそれが景気浮上策だと思っている人も多い。
団塊世代の成長は内需を拡大して経済発展を促し、労働力としても消費者としても国を支えてきた。しかし、定年を迎える彼らが、今求めているのは何であろうか。彼らの多くは、幼少期に歩き、汽車・バス・電車などの公共交通世代を生きてきたのだ。いち早く、ヨーロッパ諸国では、自動車社会からの脱却を図りつつある。エネルギー問題や地球環境に対する深い考えが背景にある。
今回、佐久病院の「移転先」として、鉄道から離れた「田圃」や「山麓」が提案され、高速道路誘致の方便に画策される時代認識に、度重なる幻滅を感じざるを得ない。

〈7.村や町は共同体なのか〉

 若月先生はコミュニティーと日本の村や町は異なると再三語っている。日本のそれは「お役所」が統治する単位であって、自治のある西欧の「コミュニティー」ではないのだと。フランス革命に代表されるヨーロッパの「市民革命」は、例えばデンマークでは緩やかだが、現代まで脈々と国民の意識の中に根づいているように思う。住民の社会参加への意識が高く、20代の市長が誕生したり、市長たちがデモしたり、公共サービスの低下を懸念した市民が、「増税要求デモ」をする社会である。国や市という「コミュニティー」が身近にあるといえる。

〈8.暮らしやすい、棲みやすい町を求めて〉

 日本各地で「まちづくり」が進められているが、成功したところは数少ない。それぞれに、暮らす人たちが創意工夫して、発言し参加するところに活気があるように思える。
もはや、田畑をつぶして巨大建築物を造り、有料道路をつくり続ける時代ではないように思う。それにともなう自然破壊、農業軽視が未来の危機を招きかねない。佐久病院の今回の再構築問題は、地域の医療提供体制の再編であり、これからの町づくりの重要な柱であると思う。これは、医療のみならず「教育環境」「生活福祉」「健康増進・保健予防活動」など、住民の強い関心と参加を求めた地域最大の事業になると思う。

(最後に)若月先生のことばから

 再構築のことを考えるときに、若月先生のつぎのことばが聞こえてくる気がする。

〈1.「弱者」を助けること・「助け合い」〉

 この世には「弱者」がいることを忘れてはならないと思う。女性問題や老人問題を私が扱うこと、また農村医療に取り組んできた根底には、人間はみな平等であるというデモクラシー(民主主義)の思想がある。現実の世の中は平等ではないが、平等な世の中にするという理想を持つことは大事である。社会的な「弱者」、肉体的な「弱者」を助け、守ろうとするのはごく普通の人間の考え方だと思う。

〈2.「付け」を次の世代に回したくない〉

 自分らしく死ぬとは、「はいさようなら」でない。「この世の闘いはまだ続いている」「生きている限りはできるだけ頑張った」だけでなく、「〈死んでも〉この世の正しい発展のために尽くしたい。次世代のために、何かを尽くしたい」という気持ちが大切ではないだろうか。これは今の世の中が、生きている自分の個人の利益のみを考えて、先のことを考えない、今だけにやりくりを重ねて、「付け」をすべて未来に回しているようなこの国の政治や経済の方針に対する、わたし自身の批判でもある。
わたしはもう力がなく、たいしたことはできない。しかし、生きている限りは、そして、死んでから後も何らかのかたちで、次世代の発展のために尽くしたいと思う。

〈3.人間の死は社会的なもの〉

 動物は個体が死んでしまえば、すべておしまいになるが、人間は死んでも他人のこころの中に「生きている」のである。キリストやお釈迦さまのように何千年も生きているわけにいかないが、わたしたち市井の俗人だって、「あのおじいちゃん」や「おばあちゃん」はすぐには死んでいってしまうわけではない。しばらく隣人のこころの中で生きている。それだけでなく、場合によっては、それが世間を動かすような事件につながる場合だってある。
人間の死は社会的なものなのである。どうも今日のわたしたちには、人間が「社会的動物」だという視野が欠けているように思えて仕方がない。